千島は全て日本領

北方領土問題には、多少、因縁がある。
1989年、私は北方四島の一つ、国後(くなしり)を日本のテレビとしては初めて取材した。これを放送したのは、櫻井よしこさんがキャスターをしていた日本テレビの「きょうの出来事」である。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20091003
旧島民の墓参りなど特例のビザ無し渡航とは違って、私の場合は、ソ連当局のツアーに乗っかった、ご法度の取材行であり、外務省は激怒した。ソ連のビザで行くことは、ソ連の領土と認めることになるので許されない、というわけだ。その直後から、新しい日本国旅券が発行される際、北朝鮮だけでなく、北方四島に行く際にもこの旅券は無効だと記した注意書きが挟み込まれるようになった。
けっこう大きな「事件」だったのである。
国後の取材で印象に残っているのは、島民が日本を向いて生活しており、日本との交流を強く望んでいたことだ。
テレビの方式が違う(NTSCSECAM)ので白黒でザラザラだが、みな日本のテレビを見ている。特に天気予報は必須の情報だった。
インフラのレベルはひどく、舗装道路はほとんどなく、港も未整備だった。島民は、日本が経済的に進出して投資してくれることを望んでいた。ソ連は千島などの遠隔地には莫大な補助金をつぎこみ、労働者の賃金もモスクワの3倍と優遇策でつなぎとめていたのだが、私が行ったのはソ連崩壊直前で、モスクワには極東を管理する力もなく、企業や工場はどう運営していいのか途方にくれていた。一押しすれば日本への帰属を認めるのではないかと感じた。
さて、では、日本はどうして北方四島を日本の領土だと主張するのか。
実は、日本政府の主張は、私には非常に分かりにくい。
千島は放棄したが、四島は「千島」ではないから、うちの領土だと言っているのだ。しかし、常識的には国後、択捉(えとろふ)は千島の一部ではないのか。

この点、明快なのは日本共産党の主張である。
《日ロ間の領土問題の解決をはかる上で大事なのは、まずロシアと日本の歴史的な国境線はどこかをしっかり踏まえて交渉する必要があるということです。千島列島は、十九世紀後半の日ロの平和的な領土交渉で日本への帰属が決まりました(南千島は一八五五年の日魯通好条約で、北千島は一八七五年の千島・樺太交換条約で)。ですから、交渉の出発点は、日ロの歴史的境界――千島列島全体が日本に帰属していることを示す――をしっかり踏まえることです。
さらに交渉でとりわけ大事なのは、日本が第二次世界大戦の戦後処理の誤りを正すという立場でのぞむ必要があることです。今日の領土問題の大もとには、第二次大戦の戦後処理の際、ソ連スターリンが、連合国の「領土不拡大」原則に反して千島列島の引き渡しをを宣言(二条C項)した問題があります。ですから日本政府は、領土交渉に当たり、この誤った戦後処理を正面から正すという、国際法上も論拠のある道理ある立場でのぞんでこそ、世界もロシア国民も納得しうる、問題解決の展望をえることができるでしょう。
 ところが自民党政府は、交渉に当たり、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)の南千島は「サ条約で放棄した千島列島には属さない」という、国際的に通用しない論を立て、もともと北海道の一部で千島列島に含まれない歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)と合わせて返還要求を四島に限定。北千島を最初から領土要求からはずす態度をとってきました。その上、四島についても、国境線を画定するだけで、施政権はロシアに残すという譲歩提案をするなど、一方的に譲歩を重ね、日本側の後退だけが既成事実として残るという事態になっています。》
http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/201005_faq_tisima_kaitetu_.html
「領土不拡大」原則とは、戦争の結果、戦勝国が領土を拡大すると、それがまた次の戦争を生み出すので、そういうことはやめましょうというものだ。
戦争や武力で奪ったところ以外は、国境線を動かさないわけだ。千島は日本がロシアとの条約で平和的に得た領土だから、変更はないはずなのだ。
私は、国後の住民代表と会い、この、全千島は日本の領土だという主張を展開したのだった。