まさかの友こそ

takase222010-10-01

近所に立派な栗の木があり、大きな毬(いが)をつけている。
出勤途中に見るのが楽しみである。
子どものころ、山の中で、青い毬を足でむいて生で食べたことを思い出す。まだ青い熟していない栗だ。爪で渋をこそいで食べるのだが、これがうまかった。
秋風の吹けども青し栗の毬 芭蕉

テレビ不況のなか、会社も厳しい状況が続いている。周りの関連業者やフリーの人たちも目に見えて金回りが悪くなっている。年末までの3ヶ月を無事に乗り越えられるか、厳しい闘いになりそうだ。
人は、私もふくめて、つくづく自分勝手にできているなあと感じるきょうこのごろである。
うまくいっているときは、オレさまのおかげ。調子が悪くなると、それは他の誰かのせいで、自分はかわいそうな「犠牲者」に思えてしまう。
会社でも政党などの組織でも、落ち目になると、メンバーは自己憐憫と他者攻撃に向かい、それが組織をがたつかせるというスパイラルになる。人の、自分の知らなかった一面があらわになる。
長年信頼関係にあった人が、背を向けて去っていったりもする。でも、一方でうれしいこともある。
うちの会社が厳しいのを知ったフリーのカメラマンが「カネは要りません、できることがあれば何でも言ってください。これまで世話になった恩返しです」と言ってくれた。彼も決して楽な暮らしではないのに。本当にありがたいことだ。
A friend in need is a friend indeed. (まさかの友こそ真の友)
苦しいときは、人の器量が見えてくる。