中村哲医師とフランクル5

 日本共産党の除名処分が注目されている。

 著書「シン・日本共産党宣言──ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由」(文春新書)で、共産党で党首公選を行うように求めている現役党員の松竹伸幸氏(67)が、党の規約上最も重い「除名」の処分を受けた。小池明書記局長が2023年2月6日の記者会見で明らかにした。

 この問題は、ネットで大きな話題になり、新聞が社説で取り上げるほどに盛り上がっている。ただし、除名の理由が「党首公選の主張や、著書の出版が分派活動とみなされた」と報じられているが、ここにはちょっと誤解がある。

 『しんぶん赤旗』に載った土井洋彦書記局次長の論説でも、「松竹氏の除名処分は、『党首公選制』という意見を持ったことによるものではない」と述べている。

 では何が問題か。
 共産党のヒラ党員が、自分の所属する地域や会社などの党組織(支部)を越えて、広く全国の党員に「呼びかけた」ことだ。

 共産党は、特殊な事情のある場合を除き、中央委員会―県委員会―地区委員会―末端の支部(かつての「細胞」)まで厳しいタテ線で組織されており、これを外れることは許されない。例えば、東京の組織(支部)のある党員が、このタテ線を飛び越えて、千葉県の組織(支部)に属する友人の党員と「今回の党中央の方針はおかしいと思う」などと意見交換をすれば即規律違反となる。

 非合法時代、この組織原則により、一つの細胞が弾圧を受けても、横の連絡がないため、芋づる式に逮捕されてダメージが広がることを防ぐことができた。強大な敵権力との、生きるか死ぬかの闘争においては、こうした軍隊に準じる組織づくりが求められた。

 自由に意見を言えるのは自分の所属党組織(支部)のなかでだけなのだ。ヒラの一般党員が全国の党員に問題提起して意見を交換しあったり、党中央と違った意見への賛同を求めたりする手段はない。(『しんぶん赤旗』は「共産党中央委員会」の機関紙であり、中央委員会と異なる意見は載せない)

 少数意見が議論を経ながらしだいに同調者を増やして多数意見になっていくという民主主義の機能は、共産党の組織論には組み込まれていない。

 党員同士でさえ自由に意見交換できないのだから、党中央と異なる考えを党員以外の人に言うことはもちろん禁止される。今回、松竹氏は、党中央と異なる主張の本を、許可なく出版したわけで、共産党の論理からすれば当然NGである。

 さらに、松竹氏は、除名処分を「不服」とし「再審査」を求めて、(タテ線を外れて)党員たちの賛同を広くつのる旨、宣言しており、これが「分派活動」とみなされるのは明らかだ。

 以下は、中村たかえ(広島市議選予定候補)という共産党員のツイート。
https://twitter.com/jcp_takae

 

 この赤旗の論文では、これを「党内に松竹氏に同調する分派をつくるという攻撃とかく乱の宣言にほかなりません」と激しく非難している。

 レーニン以来の前衛党に特有の組織論「民主集中制」については、半世紀前に日本共産党中央が例外的に異論を一部公開し、党内で大論争になった。その結果、党中央の見解を批判した著名な知識人党員をふくむ多くの党員が排除され、議論も封印された。

 「民主集中制」は日本共産党のアキレス腱。共産党は「恐い」という国民の意識の根本にこの問題がある。これを乗り越えないと、共産党が政権に近づくことはもちろん、今後、大きく支持を伸ばすこともむずかしいだろう。


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アウシュビッツの入り口。ユダヤ人、ロマ、社会主義者、同性愛者などは「労働は自由にする」(働けば自由になる)との標語の下を通って収容されていった。(筆者撮影)

 『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)は、ビクトール・フランクルの日本に翻訳された著作の中でも愛読者の多い一冊である。

 これは、彼がナチス強制収容所から解放された翌年にウィーンの市民大学で行なった三つの連続講演で、自らの生々しい体験をもとに考察した「生きる意味」を説いている。

フランクルは生涯、「生きる意味」について考えた

 前回『夜と霧』で引用した考えかたをこの講演で全面的に展開している。

 「しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。」

 「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、『人生の問い』に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。」

 その問いは、具体的に、その時、その場で問われるものだとフランクルは言う。
 チェスの世界チャンピオンに、特定の具体的な局面、具体的な駒の配置をはなれて、「どういう手が一番いい手だとお考えでしょうか」と尋ねることが無意味であるように、生きる意味の問題は、「具体的なここと今において問われるのでなければなりません。」(P25-30)

 中村哲医師は、自分をセロ弾きのゴーシュになぞらえて、こう言っていた。

「賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。遭遇する全ての状況が―古くさい言い回しをすれば―天から人への問いかけである。それに対する応答の連続が、即ち私たちの人生そのものである。その中で、これだけは人として最低限守るべきものは何か、伝えてくれるような気がします。それゆえ、ゴーシュの姿が自分と重なって仕方ありません。」

 その時々に「天から人への問いかけ」があり、「それに対する応答の連続」こそが人生だとする中村さんの哲学は、フランクルの主張とぴったり重なっているように思われる。 

 では、「天から人への問いかけ」に対して、私たちはどのように答えればよいのだろうか。

 フランクルによれば、まずは「活動」で答えるやり方があるという。何かをすることで、何か作品を創造することなどで、人生が出す具体的な問いに答えることだ。

 これについて、ある青年が議論を吹っかけてきた。「私は一介の洋服屋の店員ですよ。私はどうしたらいいんですか」と。
 フランクルは、その人が何をして暮らしているか、どんな職業についているかはどうでもいいことだという。

「むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くし ているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのは、その活動範囲において最善を尽くしているか、生活がどれだけ『まっとうされて』いるかだけなのです。」 

 では、中村さんの「答え」はどのようなものだったのか。
(つづく)