中国とどう向き合うのか2

聖徳太子推古天皇の摂政であった西暦600年(推古天皇8年)、第一回の遣隋使が派遣された。
478年(雄略天皇22年)の宋王朝への遣使を最後に、倭と中国王朝との交流は絶えていたから、1世紀以上経っての大陸王朝へのアプローチだった。
第二回目の遣隋使は607年、小野妹子(おののいもこ)を大使として派遣された。そのとき持参した日本からの国書には、こう書かれていたと『隋書』にある。
「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」
これを見た隋の煬帝(ようだい)は喜ばず「蛮夷の書、無礼なるものあり、また以て聞するなかれ」と側近に言ったという。激怒したのである。
当時、隋といえば、圧倒的な超大国であってアジア全体を冊封体制に組み込んでいた。周辺国家の権力者は、隋から「王」として認めてもらってはじめて存在をゆるされた。それを、おそらく聖徳太子が書いたと見られる公式の外交文書「国書」では、「天子」から「天子」へと対等な立場で挨拶したのである。煬帝が「無礼」と激怒するのも当然の、常識を超える事件だった。
ひとつ間違えれば「国難」をまねきかねない事態である。
煬帝の怒りをおさめるかのように、小野妹子煬帝に拝謁して、こう述べた。
「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと、故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」
「海西の菩薩天子」とはもちろん煬帝のこと。仏法に理解のある立派な皇帝と聞き及んでおります、と持ち上げつつ、日本からの沙門(仏僧)や学者を留学させてくれるよう依頼し、受け入れられている。
聖徳太子は、きわめて困難な外交ミッションに堪えうると見込んでこの人物を大使に選んだのではないだろうか。
すごいぞ小野妹子
小野妹子の帰国にあたって、煬帝は裴世清(はいせいせい)を日本まで随行させた。
「既に彼の都に至る、その王、清(裴世清)にあい見(まみ)え・・」とあるが、古代中国に女帝の先例はないから、「王」とは推古天皇ではなく、おそらく聖徳太子だろう。
煬帝からの国書には「皇帝、倭王に問う」と書いてあった。(日本書紀
あくまで対等ではなく、そっちは、その他大勢の地域の「王」なのだというわけだ。
この裴世清らの隋使帰国に際し、第三回の遣隋使が派遣されるが、ふたたび小野妹子が大使に起用された。このときの煬帝あての国書には、こうある。
「東天皇(やまとのてんのう)、敬(つつし)みて西皇帝(もろこしのこうてい)に白(もう)す」日本書紀
この解釈はきっといろいろあるのだろうが、あくまで対等外交の線を崩していないと読める。
手に汗握る外交戦である。言葉の一つひとつにも細心の注意を払って書いたのだろう。
隋を激怒させた対等外交だが、聖徳太子は、いたずらに隋を刺激し、喧嘩を売っているわけではけっしてない。それどころか、遣隋使派遣や大量の知識人の留学に見られるように、隋と活発に交流し、仏教はじめ大陸の進んだ文化、文物を積極的に導入しているのである。
その聖徳太子が理想としたのは「和をもって貴しとなす」、平和国家の建設だった。
平和とは、国家指導者の毅然とした姿勢と優れた柔軟な外交力量のもとではじめて達成されるのではないか。
私たちのご先祖の事績に深く感じることの多い今日この頃である。