「四苦八苦」を喜ぶ

takase222009-11-27

用事で新宿御苑のそばを通りかかった。銀杏の大木が見事に色づき、道行く人がみな上を見上げている。晩秋だなあ。今年は紅葉をゆっくり見るゆとりがなかったが、きょうはしみじみ自然の移ろいを感じた。
さて、お釈迦様は、人生は苦に満ちていると言ったそうだ。
「四苦八苦」というのは、もともとはこれを表す仏教用語だったという。「生・老・病・死」の「四苦」は知られているが、「八苦」は何か。
「八苦」とは、八つあるのではなく、以下の四つだ。
愛別離苦」(あいべつりく)、「怨憎会苦」(おんぞうえく)、「求不得苦」(ぐふとくく)、「五蘊盛苦」(ごおんじょうく)。
これと先の「生・老・病・死」の「四苦」とを合わせて「八苦」となる。
「愛別離」とは、愛する者たちと別れるということで、「怨憎会」とは憎む相手と会うこと、「求不得」は、求める物が得られないこと。
家族や親しい友人とも別離するときが待っている。最後は死という形で必ず引き離されるのである。
逆に「嫌だなあ」と思う人とめぐり会う、それだけでなく、学校で同級になったり、近所で隣同士になったり、長期間一緒にいなくてはならないこともある。カウンセリングの最も多いテーマが「人間関係」だというのもうなずける。
「苦」というのは要するに、《自分の思い通りにならない》ということだ。人はこれらの「苦」からは逃れようがないとあらためて思う。
さて、自分をふり返ると、今は、公私ともに「苦」のレベルの高い局面になっている。お金、家族、健康などいくつもの分野にわたって、思い通りにならないことが次々に出ている。人というのは自分勝手なもので、まず「苦」を受け入れたくない気持が出てくる。「こんなにがんばって、真面目にやっている自分が、どうしてトラブルばかり抱えるんだ・・・」と。
末期がんを宣告された人が、「ウソだろう」とはじめはそれを受け入れられず、次には「何で自分がそんな目にあうんだ」と怒りの段階が来て、最後には死を安らかに受容するという。「苦」を「受容」して生きるには、どうしようかと考える。
まず、《自分の思い通りにならない》のは、この世に生きる者として当たり前だと自分に言いきかせる。そりゃそうだよな、3千年前のお釈迦様の時代も、人類は同じような「苦」を抱えて生きていたんだから。
次に、これはトレーニングなんだと考える。自分が人間として成長できるチャンスなんだと。例えば、甲子園を目指す球児たちが、苦しい練習を自らに課す。その練習なんだ。この「苦」はうさぎ跳び、その「苦」は走りこみ、みたいな・・・。
こう考えると、「苦」はむしろ有難いものだ。
まあ、こんな境地になれないかといま努力しているところである。