戦犯タクマを追って10

 東地琢磨が本当は何を行い、何を考えていたのか、今となっては知りようがありません。
 ただ、私なりに調べてきて、タクマは、必ずしも、言われてきたような「軍国青年」ではなかったという印象を持ちました。あの戦争は、タクマのように、日本人を父に、フィリピン人を母に持ち、なりゆきから日本軍に協力せざるを得なかった青年たちに、数奇で残酷な運命をもたらしました。
 マニラに住む日本人が食べているバギオ野菜は、日系人が多く加入しているトリニダッドの農業協同組合から運ばれてきます。その組合事務所のすぐそばに、タクマの墓がひっそりと建っています。
 墓碑銘には、聖書の言葉があります。

人その友のために 
おのれの生命を生る
これより大なる
愛はなし

 フィリピンに投入した日本軍の兵力は、軍属を含めて63万人といわれています。そのうち8割にあたる約50万人が戦没。これは、広大な中国大陸での15年戦争の全期間の戦没者に匹敵する数なのです。そして、戦争の悲劇は、日系人にとっては戦後もずっと尾を引いていきました。
(つづく)