戦犯タクマを追って8

 日本兵が赤ん坊を放り投げて銃剣で刺した》という話がありますね。私は、それを見たというフィリピン人三人に会ったことがあるんです。
うち一人はミンダナオ島、つまり北から南の島までそんなことがあったということになる。考えられないことです。結局、よく話を聞いてみると辻褄が合わず、自分で見たのではなくて、どこかで聞いたというでした。戦後、教科書などにそういう話が載って、イメージが作られました。

 フィリピン人の場合、特有のホスピタリティなのか、相手が望むような形に話を脚色するのです。そのときは私は、日本軍の悪行を調べて回っていたときなので、会う人ごとに、これでもか、これでもかと物凄い話がどんどん語られました。この類の戦争にまつわる怪しげな《実話》というのは非常に多い。私の取材経験から言うと「ウソを言うのは常に加害者で、被害者はウソを言わない」というのは間違いですね。

 話がちょっとそれましたが、私は仕事柄、ショッキングな話になればなるほど疑ってかかります。しかし、タツ子さんの話は、何度どの角度から質問してもディテールがしっかりしていて辻褄が合うのです。そして冷静に淡々と語っている。おそらく事実でしょう。
 先日、タツ子さんと「現場」を訪れました。タツ子さんが登ったタマリンドの木は、なんと今も残っていました。彼女は当時を思い出したのか、感慨深げにながめていました。きっとこういうことは、フィリピンの他の場所でもあったことでしょう。
 タツ子さんによれば、バヨンボンには憲兵隊のほか、工兵隊、野戦病院など、たくさんの軍施設があったそうです。兵士たちはどんどん交代して、顔ぶれが換わっていくが、通訳のタクマはずっとそこにいた。ゲリラ容疑者の取り調べはまず憲兵がやるが、その通訳をするタクマはいつも容疑者に最も近いところにいたわけで、フィリピン人に顔も名前も覚えられ有名になってしまった。だから、そのあたりの残虐行為がみなタクマに被せられたのではないか、というのがタツ子さんの推測です。
 戦後、こういう日系人が現地人の恨み、怒りの矢面に立たされたのでしょう。

 彼女が最後にタクマに会ったのは、日本人がキアンガンの方へ逃げていく直前でした。一人で彼女の家にやってきて「僕は山下大将とともにキアンガンに撤退するが、とても危険だから、君は来ない方がいい」、さらに「もし、僕が運よくこの任務から離れることができたら、君は僕を待っていてくれるか」と言ったそうです。
 二人の会話はイロカノ語(フィリピン北部イロコス地方の言葉)でした。その言葉は、おそらく彼女の胸の中に鮮明に残っているのでしょう。遠くを見る、うるんだ目をしていました。
 彼女はフィリピン人である母方の祖父の家へ逃れ、かくまってもらって戦後を迎えました。
(つづく)