タクマの足跡を調べていくうちに、彼には淡い恋があったことを知りました。
その「恋人」も日系人だとのこと。是非お会いしたいと思い、バギオのシスター海野がご存知ではないかと、お電話しました。すると偶然、バギオの日系人会のオフィス兼クラブになっているABONという建物に住み込んで働いているのが分かり、お会いしてお話をうかがうことができました。
椿タツ子さんとおっしゃる方です。若いころはさぞかし美人だったろうなと思わせる清楚な人でした。
椿さんのお父さんは熊本出身で、1917年フィリピンにわたり、ダバオの古川プランテーションという有名なアバカ農園で働いたあと、バヨンボンで手広く建設の仕事をしていたそうです。アルバムを見ると、自家用車2台、トラックが7台あり、かなり成功した人だったようです。お父さんが軍の通訳として徴用された関係でタクマと知り合いました。タツ子さんがわずか14歳のときで、「ガールフレンドにしたいが、まだ小さいから僕は待つ」と当時20歳のタクマは言ったそうです。
タクマがバヨンボンに来たのは1942年6月ですが、その年の9月、タツ子さんのお父さんはゲリラに殺されました。タクマはその下手人を探し出したうえ、その後は夜には用心のためにタツ子さんの家に泊まって守ってくれたそうです。金銭的な援助もしていました。
「私にはとても親切な人でした。でも、その一帯のフィリピン人の間では恐れられていました。女の人のほっぺたをビンタしたなどという話を聞いても信じられませんでした。あるとき、『あなたが残酷な人だという評判が立っていますよ』とタクマに言うと、彼は『それは僕の任務(duty)なのだ。でも心配しないで。君には何も悪いことはしないから』と言いました。私の前では本当に優しい、いい人でした」。
これがタツ子さんの中にあるタクマの姿です。
タクマとは直接関係ないのですが、タツ子さんはあるとき、次のような光景を見たそうです。
「フィリピン人が河原に三百人ほど並ばされて、次々と首を斬られていました。逃げようとした人は囲んでいた兵隊に銃剣で突き刺されました。きっとゲリラ容疑者だったのでしょう。首が離れたあと、胴体が2、3歩いて倒れていった光景を今でも覚えています。一緒にタマリンドの木に登って見ていた弟は、あまりの残酷さに吐いてしまいました」。
この話には私も衝撃を受けました。
(つづく)