鈴木大拙博士の話を続ける。
《たとえば、浄土宗だと南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えながら木魚を叩くだろう。ああいう工合にやっているというと、心理的に一つのユニフォーミティ・オブ・コンシャスネス(意識の統一)ができるのだな。波の動かないような、三昧(ざんまい)というか、いわゆる“定”(じょう)に入る。そのときひょっと刺激する。そうすると、そこにコンシャスネス(意識)が動く。その刹那に“悟り”というものがある。釈尊が三昧に入ってひょっと暁の明星を見た。星の光りが眼に入って、眼の感覚を動かした。そのときに、ユニフォーミティ・オブ・コンシャスネス(禅定)が動く(智慧)わけだ。そこに一種のインチュイション(直覚)がひらめく。それが“悟り”なんだ。そいつを機械的にやらせようというわけだ。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・」とやっているあいだに、コンシャスネスがユニフォームな状態に入るのだな。そのとき、鐘がゴオーンとなるとか、隣りで誰かがしゃべったとか、和尚が「喝!」というたとかして、ひゅっと、意識に変化が起こる。また、それを起こそうとして、やらせるのだ。》
海外生活が長く英語で禅を世界に広めた鈴木大拙師らしく、横文字が頻繁に出てくるが、要するにこれは覚り体験だと言っている。
禅だけではなく、浄土系の宗派でも覚り体験を作り出すということが行なわれていたのだ。
秋月龍萊師もこう言う。
《坐禅の姿勢で坐ることによって三昧に入ることに限るわけではなく、「念仏」や「唱題」によって三昧に入っても一向に構わない。要するに、「無我」が現成して禅定の三昧境に入って、それが何かの感覚の縁にふれてその「無」が爆発すると、そのとき直覚がひらめく、その「覚」が悟りである。》
繰り返すが、今は、覚りの「中身」については後回しにして、覚り体験を心理的プロセスという面から見ているのだが、こうした特殊体験の「からくり」というか「構造」が判明してくると、スポーツにおけるような「トレーニング」という発想が出てくるのは必然である。つまりハウツーが発達してくる。
そのトレーニングのテクニック・技術を研ぎ澄ましていったのが禅だった。
(つづく)