覚りへの道8-「頓悟」と「漸悟」2

ここから、ちょっと「お勉強」になるが容赦されたい。先に早く行くために、超スピードで進んでいく。
「頓悟」と「漸悟」の対立は、六祖慧能(えのう)の流れをくむ南宗禅(日本に入ったのはこの系統)が、北宗禅を「漸悟」だと批判したことで注目されるようになったらしい。
また、唯識の教え自体にもこの二つの区別(菩薩になるまでに声聞、独覚を経るかどうかで)があるようだ。
こうした議論はさしあたり無視しよう。頓悟と漸悟の問題を出したのは、覚り(悟り)の「型」としてのイメージをはっきりさせるためだけである。
ネットを見たら、ある本の紹介に、私が前回のブログで書いたことと同様の指摘があった。
《 禅と唯識は、同じ仏教といえ、全く異なるもののようです。例えば禅では、「頓悟」という言葉で示されるように、修行の段階を認めず、直ちに悟りの境地に入ることを強調しますが、唯識では、どんな修行者も初発心から仏に至るまでには、三大阿僧祇劫という気の遠くなるような長い時間がかかると言います。》(愛知学院大学禅研究所のサイトhttp://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/word/bookmark/11.html
前回書いたことは、それほど的をはずしたものではなさそうだ。
「頓悟」といえば禅。小石がカチンで「豁然大悟(かくねんたいご)」、この一瞬で本当に終わりなのか。
禅に関して学んでいくと、実はそう簡単なものではないことがわかる。
禅では「悟後(ごご)の修行」という言葉がさかんに出てくる。「覚り」(悟り)の後の修行とは何か。覚った後に修行など必要なのか?
興味深いのは「十牛図(じゅうぎゅうず)」である。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%89%9B%E5%9B%B3
これは禅における覚りの深まりを示しているという。
いなくなった自分の牛を捜して行き、発見し捕まえて家に連れて帰る。その後は、牛のことも何もかも忘れ、最後は笑いながら裸足で町に出ていく十番目まで十の場面の絵に描いたものである。
捜し求めていた牛を見つける「見牛(けんぎゅう)」が、「見性(けんしょう)」と呼ばれる段階だと思われる。小石がカチンと当たって覚ったというのがここなのだろう。これが十牛図のまだ三番目である。最終段階まではまだまだだ。
「部分的な覚りは覚りといえるのか」と疑問が湧くかもしれないが、この疑問は置いておき、とりあえず次のように考えてよいだろう。
「見性」は大きな飛躍であり、これを狭い意味での「覚り体験」と呼んでおく。しかし、それは終わりではなく、そのあと、さらなる修行を積み重ねて境地を深め完全な覚りをめざすことが求められる、と。
つまり、「頓悟」を標榜する禅においても、「見性」の後、境地は段階的に深まると見ているのである。
これは「漸悟」という考え方とどう関係するのか。
(つづく)
【参考:秋月龍萊『十牛図』】