覚りへの道6-覚りはあるか3

古今東西、覚った(とされる)人はそれなりの数に達するようだ。
禅の世界では、シナでも日本でも、覚った人がたくさんいることになっている。禅については、古くからたくさんの書物が残されており、覚りの跡を辿ることができる。
多くの覚者(とされる人)がいるとすると、やはり「覚り」はあるのか。いや、これだけではまだ証明にはならない。「覚った」と勝手に主張しているだけかもしれないからだ。
だが、ここに面白いことがある。覚者(とされる人)が得た覚りの《中身》が共通しているらしいのだ。これは決定的に重要な事実だと私には思われる。
二千五百年前に覚ったお釈迦様から現代にいたるまで、生きた時代も場所も違い、所属する民族も文化も異なるあまたの覚者(とされる人)が、互いに示し合わせることなく、同じ境地に辿りついたということになる。
こうなると「覚り」は実際に存在する、こう考えるしかないではないか。
こうして、私は「いわく言いがたし」という捉えどころのない感覚ではなく、客観的に存在する目標として「覚り」というものをとらえることができた。
そして「覚り」の中身とは、言葉で表現すると、あっけないほどシンプルなものであった。
(つづく)