覚りへの道5-覚りはあるか2

精神世界の本に「覚者」として名が挙がる人には、ラーマクリシュナ、シャンカラ、ラマ・ゴーヴィンダ、ラマナ・マハリシ、聖ディオニシス、マイスター・エックハルトなどがいる。
日本ではサイババの名が知られている。青山圭秀氏が日本に紹介してブームとなりテレビでも取り上げられた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%90
しかし、どうも胡散臭い。私は、サイババの「物質化」という奇跡は、単なる手品ではないかと思っている。手品としてはセロの方がずっとすごい。(サイババの批判本にパンタ笛吹『裸のサイババ―ぼくたちの外側に「神」をみる時代は終わった』がある。)
私は以前、仏教では、覚ったのはお釈迦様(ガウタマ・シッダールタ)ただ一人なのかと漠然と思っていた。でもちょっと調べると、そうではなくて、お釈迦様以外にも覚者がいることは前提にされているようだ。
このブログのタイトル「諸悪莫作」(しょあくまくさ)というのは、「七仏通戒偈」(しちぶつつうかいげ)といわれる、七人の仏に共通する教えから取っている。http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/newmon/name/7butu.html
七仏とはお釈迦様以外に六人の仏がいて、その仏たちがみな同じ教えを説いたのだというわけだ。仏はお釈迦様だけではなかったと考えられていたのだ。
さらに道元は言う。「ただ七仏のみにあらず、是諸仏教なり」。七仏だけではなく、これは「もろもろの仏の教え」だと。つまり、仏はたくさんいてよいことになる。
では、お釈迦様自身はどう考えていたのか、知りたくなった。そこで、原始仏教の経典「阿含経アーガマ)」を読んでみた。すると「ダンマパダ」経典に通戒偈があった。
《すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、―これが諸の仏の教えである》(183)
「諸の仏」と複数である。
ところがもう少し後に成立したとされる別の経典「ウダーナヴァルガ」では、同じところが《これが仏の教えである》と単数になっている。覚者はお釈迦様ただ一人ということか。これはどういうことなのか?
中村元博士の注釈ではこうだ。
「ダンマパダ」の時代には「ブッダは幾人もいて差支えないのであり、その場合のブッダは仏教以外の聖者をも含めて解し得るものであった。ところがこの『ウダーナヴァルガ』の詩ではブッダは単数で示されている。確立したアビダルマ教学によると、一つの三千大千世界に現在の時期においては一人のブッダしかいないのである。ここに示されているブッダは仏教の「仏」であり、仏教外のブッダを意味するものではあり得ない。つまりこの時代には既成宗教としての仏教教団の権威が確立していたのである」。(岩波文庫『真理のことば 感興のことば』)
教団確立とともにお釈迦様の神格化、絶対化が進んでいった跡が、複数の仏から単数の仏への変遷に見られるというわけだ。覚ったのはお釈迦様ただ一人、という考え方は、アビダルマ教学(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%9E)を引き継ぐ小乗仏教に強い。最近、たくさん本を出して気を吐いているスマナサーラ師(スリランカ小乗仏教)は「ブッダ以外、完全に真理を語れる人はいません」と大乗を批判している。(『般若心経は間違い?』)仏になろうと努力しても無駄だと言いたいようだ。
それはともかく、教団というものがなかったお釈迦様の時代には、お釈迦様に従わない人も含め、誰であれ覚者はブッダだったのである。
つまり、お釈迦様も、覚者は何人いてもよいと考えていたと結論づけて、次に進もう。
(つづく)