アメリカを当てにするな

takase222008-12-12

ニュースよりその1。
ノーベル賞授賞式での益川さんに注目が集った。
《「英語嫌い」を公言する益川敏秀さんの反骨精神・・・》という表現が新聞で目についたが、私には違和感があった。
テレビを観ていたら益川さん、スピーチ冒頭での「私は英語を話しません」の前に「アイムソリー」と言っているではないか。なぜ謝るのか。英語を話さないと罪になるみたいではないか。益川さんにして「アイムソリー」なのかと、私は逆にショックを受けたのだった。《反骨精神》と表現するのはおかしいだろう。
ニュースよりその2。
ブッシュ政権下でたぶん最後となる6カ国協議が、何の成果もなく終わった。こうなることは分っていたのに・・。
今回は「検証枠組みの合意の文書化以外に目的はない」(ライス国務長官)会議で、焦点は「サンプル(試料)採取」の文書化だった。核施設周辺でサンプルを採取することができれば、北朝鮮が申告したプルトニウム量が正しいかどうか検証できる。
これを北朝鮮は最後まで拒んで、協議が暗礁に乗り上げたのだ。
しかし、アメリカが北朝鮮テロ支援国家リストからはずしたのは、10月の米朝協議で「検証方法で合意に達した」からだったはずだ。しかもその検証方法で「サンプル採取」も含めて北朝鮮と合意したとアメリカは言っていた。日本側が「北朝鮮の口約束を信用していいのか」と強く疑問を呈したが、アメリカは「まかせなさい」と押し切ったのだった。
ライスもヒル国務次官補も北朝鮮の手口を全く分っていないし、このチームにブッシュ大統領が任せたのも大きな間違いだった。
でも、もう遅い。北朝鮮には、何もしないのに、テロ支援国家リストから外れるという大きな成果が転がり込んだ。北朝鮮テロ支援国家に再指定するのはかなり難しい。
実際はアメリカ政府は核協議を進めたい一心で北朝鮮の口約束に騙されたのだが、北朝鮮が「過去6ヶ月間テロ行為をしていない」という解除条件を満たしたと公的に認め、解除通知を議会に出して45日間を経過する措置を取る手続きを経ている。いったん片がついてしまったのだ。それに、金融危機はじめ頭の痛い問題が山積するオバマ政権が、テロ支援国家再指定などという面倒なことに乗り出すとは思えない。
またまた、北朝鮮の一方的勝利だった。こんな同じようなことを何度繰り返せばすむのか。
きょう、国際シンポジウム「北朝鮮の現状と拉致被害者の救出」(主催:家族会、救う会拉致議連)に行ってきた。報告は元CIA東アジア支部局長のアーサー・ブラウン氏と北朝鮮労働党中央の元工作機関幹部、張哲賢(チャンチョルヒョン)氏、これにジャーナリストの惠谷治氏、元韓国公使の洪熒(ホンヒョン)氏、救う会西岡力氏がコメントした。
はじめにブラウン氏が、アメリカにとって拉致問題は最優先課題ではないから当てにしてはならない、あくまで日本が主体的にやらなくてはならないと強調し、これがシンポの基調のメッセージになった趣がある。
去年の国際会議は、タイやルーマニアの被害者も呼んで、拉致を「国際化」したが、今年は様変わりだ。
金正日の病気もあり、これから拉致問題解決のチャンスがくるかもしれない。その点で、北朝鮮の支配構造をリアルに分析した張氏の話はタイムリーだった。
ところで、張氏は今年になって、97年に韓国の呉益済(オイクジェ)氏を北朝鮮が拉致した事実を明らかにしている。呉氏はキリスト教のリーダーで、政治活動でも知られた人物だった。彼はいきなり平壌に現れて亡命を表明し、現在も北朝鮮にいる。
【RP=共同】朝鮮中央放送は15日夜、韓国の野党第1党、新 政治国民会議金大中総裁)の元顧問で、天道教の統率者でもあった呉益済氏が同日、平壌の故金日成主席の銅像に献花したと報じ、 同氏が朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)に亡命したことを明らか にした。同放送は、呉氏の亡命の具体的な日時については触れていないが、「15日午後、列車で平壌に到着した」と指摘している。
実はこれは、97年2月に黄長除エ(ファン・ジャンヨプ)書記が亡命したのに激怒した金正日が、対抗措置として韓国の著名人を拉致してこいと工作機関に命じた結果だという。これも直接に拉致を指令したのは金正日自身だ。国際刑事裁判の被告にするしかない。
拉致といえば、先日、あの脱北者の美女スパイ、元正花(ウォンジョンファ)が裁判で、中国から韓国人を北朝鮮へと拉致したことを告白している。99年のことだったという。http://gendaikorea.com/20081015_01_hon.aspx
新たな韓国人拉致が少なくとも2件判明したわけだ。これを韓国政府がしっかり取り上げて日本と連携してほしいとの意見がシンポジウムでも出ていた。
会場で拉致被害者、市川修一さんのお兄さん、健一さんに会ってお悔やみを申し上げた。亡くなったのはめぐみさんが拉致された11月15日だった。
1978年8月に鹿児島県・吹上浜から北朝鮮に拉致された市川修一さん(当時23歳)の母・トミさんが15日午後3時22分、くも膜下出血で亡くなった。91歳だった。
トミさんは10日朝、自宅台所で倒れて意識不明となり、病院で治療中だった。次男の修一さんが、交際中の増元るみ子さん(当時24歳)と一緒に拉致されてから30年間、息子たちの帰還と再会を切望しながら、願いはかなわなかった。
 同居する長男・健一さん(63)は「普通なら大往生といえるが、修一が帰らず、会わせられなかったことが残念で、悔しい」と涙ながらに語った。
 拉致被害者家族会事務局長で、るみ子さんの弟・増元照明さん(53)は「2人の生還をもう少し待っていてほしかった。拉致被害者の親世代の高齢化が進み、時間がないことを政府は肝に銘じてほしい」と語った。(読売)

一日も早く被害者奪還をとあらためて思う。