プーチン王朝誕生の闇1

takase222008-07-25

 プーチンは、大統領を交代した現在もカリスマ的支配力を持っている。
 だが、彼は「謀略」で権力を掌握したという疑惑が、早くからささやかれていた。しかも、そのために罪のない数十万人が命を落としたというのだから、ただ事ではない。

 きのう「報道ステーション」で放送された特集《プーチン政権の闇》で、この謀略疑惑を扱った。
 2月の日記でロンドンに出張したことを書いたのはこの取材だった。このテーマは、今もロシアでは最大のタブーの一つであり、ここにはとても書けない紆余曲折があったのちにようやく番組化されたものだ。

 話は9年前にさかのぼる。
 今は世界で最も有名な政治家となったプーチンだが、エリツィンが首相に指名した1999年当時は、海外はもとより、ロシアの政界でも、「プーチンって誰だ?」との声が上がるほど、彼は無名だった。

 プーチンは、子ども時代から諜報活動にあこがれ、レニングラード大学法学部からまっすぐにKGBに進んだ人で、ソ連崩壊後KGBの後身のFSBロシア連邦保安庁)で出世し、若くして長官にまで登りつめた。
 99年8月、エリツィンFSB長官プーチンを首相にしたが、これは予想外の抜擢人事だった。すると翌9月、高層アパートが、つぎつぎに爆破される事件が起きる。使われたのは、軍用の高性能爆薬で、死者は300人にのぼった。

 プーチンは、チェチェンのテロリストの仕業と決め付け、9月23日、停戦中だったチェチェン共和国に猛爆撃を加える。これが第二次チェチェン戦争のはじまりとなった。プーチンが宣言した「テロとの戦い」は国民の大喝采を受ける。
 
 ソ連崩壊後、社会は混乱が続き、経済は事実上破綻、エリツィン大統領はといえば酒びたりでなすすべがない・・・。たまりにたまった国民の不満は爆発寸前。そこにおきたアパート連続爆破事件で、社会不安がさらに煽られていた。
 第一次チェチェン戦争はロシアにとって屈辱的な形で停戦となっていたから、プーチンチェチェン再攻撃は、国民にはかっこうの「ウサ晴らし」となった。
その後ロシア軍は地上軍がチェチェンに攻め込み占領。
 住民の犠牲者は実数はいまだ不明だが25万人とも言われる。チェチェンの人口がおよそ100万人だったから、住民に対する殺戮は、ジェノサイドの疑いを抱かせるほどのひどさだ。報道管制のなか、ポリトコフスカヤ氏ら勇敢な一部のジャーナリストの報告があるので、機会があれば読んでいただきたい。
d.hatena.ne.jptakase.hatenablog.jp


 プーチンは「強い指導者」として一気に人気が上昇し、翌2000年には大統領選挙に圧勝。その後、「シロビキ」と呼ばれる、治安・国防関係機関の出身者を政権中枢に配置、「プーチン王朝」とまで言われるほどの絶対権力を築き上げた。
 つまり、アパート連続爆破事件とそれに続くチェチェン攻撃こそ、「プーチン王朝」を誕生させた最大の要因だったのだ。

 そのアパート連続爆破が「自作自演」だ、と告発したのが、元KGB工作員のリトビネンコだった。おそらく日本人として唯一の友人だったジャーナリストの常岡浩介さんは、第一印象を「ポール・マッカートニーにそっくり」と表現しているが、たしかに似ている。童顔のハンサムである。(写真)
 彼は亡命先のロンドンで一昨年11月、猛毒の放射性物質を飲まされて殺害された。私は彼の妻マリーナとロンドンで会った。

マリーナさん(暗殺・リトビネンコ事件より)

(つづく)