映画「靖国」を観て

takase222008-05-24

雨のなか、映画「靖国」を観に渋谷に行った。封切間もないころは、例の騒動が大いに宣伝になって、朝早くから行列ができたらしいが、きょう土曜の午後は8割くらいの入りだった。
この映画を、映画館が次々に上映中止にした事態には危険なものを感じた。上映すべきだと思った。
私自身、世間を騒がせた「サンプロ」の靖国神社特集(田原総一郎氏が高市早苗氏をスタジオで罵倒したことで知られる)の製作に携わった経験があり、靖国神社を直接取材した。靖国には因縁があるのでぜひ観たかった。
観終わって失望した。靖国神社の根幹にかかわる部分の認識に誤りがあり、一人よがりで狙いも空振りしている。ドキュメンタリーとしては失格だと思った。
映画は、はじめに老人が刀を振るシーンからはじまる。この人は、90歳の現役の刀匠、刈谷直治さんで、高知県の仕事場での刀作りの作業と李纓(リイン)監督の会話、インタビューが、靖国のさまざまなシーンと交互に出てくる。そして最後に刈谷さんが徳川光圀の「日本刀を詠ず」を吟詠する。刈谷さんが映画を縦線で貫き、この映画のテーマが明らかに「靖国と日本刀」なのだと分かる。
なぜ「日本刀」がそんなに重要なのか。
映画の字幕に「246万6千人余の軍人の魂が移された一振りの刀が靖国神社御神体である」と出る。
おかしいぞ。ご神体は「剣」で、漫画などでヤマトタケルが手にする両刃の「つるぎ」だ。「日本刀」とは全く関係ない。この映画の事実誤認の数々については、『靖国』(新潮社)の著者として知られる坪内祐三氏が、月刊文藝春秋の6月号に指摘している通りである。
映画のホームページにはこう書かれている。
《知られざる事実がある。靖国神社のご神体は刀であり、昭和8年から敗戦までの12年間、靖国神社の境内において8100振りの日本刀が作られていたのだ。「靖国刀」の鋳造を黙々と再現して見せる現役最後の刀匠。その映像を象徴的に構成しながら、映画は「靖国刀」がもたらした意味を次第に明らかにしていく。》http://www.yasukuni-movie.com/contents/introduction.html
もし、靖国のご神体が「日本刀」ならば、昭和8年より前はどうなっていたのか?ご神体はなかったのか?
「知られざる事実」を明らかにするため(つまりボタンを掛け違えたまま)、見当違いの方向に映画は進んでいく。剣術訓練の戦中の資料映像などがつぎつぎにあらわれ、映画は日本刀と戦争が密接に関係していることを強調する。ついに話はあの「百人斬り競争」へと展開していく。戦後処刑された二人の軍人が日本刀を手に笑っている新聞写真、そして中国大陸と思われる場所での日本刀による首斬り処刑の写真・・・。
映画を観てできあがるイメージはこうだ。中国大陸で住民を斬った日本刀は靖国で作られた、その血塗られた日本刀が靖国神社の「ご神体」だ、刈谷さん(「靖国刀」を作った最後の現役刀匠)は今も靖国神社に日本刀を納めている、こうして靖国神社には脈々と日本刀=軍国主義の精神が息づいている・・・。
これを裏付けるかのように、8月15日の靖国神社の光景が登場する。グロテスクとしかいいようのない、昔の日本軍の軍服を来た右翼グループの参拝の映像が延々と流れる。
日本刀を重要モチーフにしたため、李監督は、刈谷さんの口から意味のある「証言」を引き出そうとする。刈谷さんは古い職人らしく、困ったような表情でほとんど答えずただ笑うだけ。次第に、李監督の質問意図が見えすぎて不快になってきた。
この映画、外国では受けるだろうなと思う。すでに香港国際映画祭では「最優秀ドキュメンタリー賞」を受賞している。
外国で上映する場合、いろんな誤解が生じるのではないかと心配になる。靖国参拝に来る軍服姿の右翼など、実はごく少数の「変人」にすぎないし(実際、周りの人は珍しがって写真を撮ったりしている)、こういう人たちは「観客」のいる終戦記念日にパフォーマンスしに来るだけなのだが・・・。また、刈谷さんの工房が高知にあることが明示されないので、いまだに靖国で日本刀を作っていると誤解されるのではないか。
工房で、「休み」の日にどんな歌を聞きますかとの李監督の質問に、刈谷さんが「靖国」の歌?と問い返す。「休み」と「靖国」を聞き違えて、刈谷さん、天皇のお言葉(オリンピック開会あいさつ)の録音テープを探して流すシーンがあるが、ここは聞き間違いだと注釈を入れて欲しい。さもないと、刈谷さんは休みのたびに天皇の声に耳を傾けていることになり、フジヤマ、ゲイシャを凌ぐエキゾチック・ジャパンが出来上がってしまう。
この映画には、日本をよく知らない外国人が日本を紹介するときに見られるエキゾチズムがある。外国人が感じた靖国として観れば、それはそれでいいじゃないかという意見もあろう。しかし、事実誤認(あるいは意図的な事実の取り違え)をもとにしたイメージ操作は「反則」である。

写真は10日ほど前の靖国神社の森。新緑が美しい。普段の日、靖国は静かである。田舎から上京したお爺さんお婆さんがそっと手を合わせてお参りしていく、それが靖国だ。こうした人々に支えられているから靖国問題は難しいのだ。終戦の日だけ騒ぐ右翼はどうでもよい。