ダーウィンの進化論に感動した!

takase222008-05-27

このところ、とてもせわしく、悩みも多い日々が続いている。帰宅は夜12ごろで、ブログに時間をかけられない。書きたいテーマがどんどんたまっていって、困っている。
こないだ、ダーウィン展(科学博物館)に行った。なんだ、暇じゃないかと言われそうだが、「いくら忙しくとも狙ったイベントには行く」というのが私の唯一の「知的生産の技術」である。
ダーウィンの進化論に、今回展示を観て、あらためて感動した。
こう書いていて、私のこの日記は、「驚いた」、「感動した」、「びっくりした」、「尊敬する」とひっきりなしに、モノに「感じて」いる文章のオンパレードだなあとつくづく思う。さらに「なんと」、「意外にも」などが頻発されるから、私は毎日ドラマチックな生活を送っているかに誤解する人もいるかもしれない。
私の尊敬する(また「尊敬」だ)環境ジャーナリストの佐藤由美さん(21日の日記に書いた笠松町長の本は佐藤さんがまとめたものだhttp://d.hatena.ne.jp/takase22/20080521)からは会うたびにこういわれる。
「高世さんは、感動の閾値(しきいち)がとっても低いのね」。
感動するかどうかの水準が低い、つまり、普通の人が当たり前と思うことにも私は「感動」してくれるので、話しがいがあるという。これは褒め言葉なのか。
さて、小学生でも知っている進化論に、いまさらなぜ感動したのか?
進化論といえば、「自然淘汰」とか「適者生存」などのフレーズがすぐに浮かぶ。ではなぜダーウィンの進化論が革命的だったのか。進化論を発表することは、教会の権威に逆らう非常に危険な行為だった。
聖書にもとづけば、人間だけでなく、パンダも、アブラムシも、ツユクサも、ブドウ球菌も、みな最初からそのままに、そしてバラバラ個別に、神が創ったものだということになる。(神さまの労力は想像できないくらい大変だ)
これに対してダーウィンの進化論では、最初は原始的生命体から無数の枝分かれをしながら、現在の生物種にまでいたったという結論になる。
写真は、ダーウィンが描いた進化の樹形図。枝はたくさんでも、木の根っこは一つである。
それは、遡れば、はじめはたった一つの単純な生命体だったということを意味する。私も、あなたも、ヘビもカエルも、タンポポエイズウィルスも、みんなみんな、同じモトから発した生物なのだ。
進化論とは、つきつめると「生命は一つ」という意味なんだ。このことに気づいたとき、思わず博物館のまわりの観客を見回して「みんな仲間なんだね」、と声をかけたくなるような感動に襲われたのだ。
これにビッグバンをつなげたら、宇宙と生命がみんな一つづきになる。これってすごいことではないか!このあとの展開については、またいつか書こう。
ところで、この展示ではじめて知ったのだが、ダーウィンのお母さんは、あの陶器で有名なウェッジウッド家のお嬢さんだった。進化論が登場する背景に、イギリスの産業の勃興があったことがわかる。