くまのプーさんとナチズム 3

takase222008-05-15

プーさんシリーズは、『くまのプーさん』と『プー横丁に立った家』の2冊の童話(石井桃子氏が早くも戦前の昭和15年に訳して紹介した)と2冊の詩集からなる。
『プー横丁に立った家』はシリーズ最後のもので、ここでクリストファー・ロビンとプーたちとの悲しい別れが描かれている。最終の第10話の書き出しはこうだ。
クリストファー・ロビンは、いってしまうのです。なぜいってしまうのか、それを、知っている者はありません。》
クリストファー・ロビンは二人の楽しい思い出にひたりながら、プーにこういう。「ぼくがいちばんしてたいのは、なにもしないでいることさ」。それができなくなりそうなのだ。

《そのとき、ほうづえをついて、じっと下の世界をながめていたクリストファー・ロビンが、またきゅうに、「プー!」と、大きな声でいいました。
「え?」と、プーがいいました。
「ぼく―あのね、ぼく―プー!」
クリストファー・ロビン、なに?」
「ぼく、もうなにもしないでなんか、いられなくなっちゃったんだ。」
「もうちっとも?」
「うん、すこしはできるけど。もうそんなことしてちゃいけないんだって。」》

安達まみ氏の訳では「あのひとたちがそうさせてくれないんだ」となる。
クリストファー・ロビンは、学校に入り、世の中の規則や習慣を覚え、いやおうなく「大人」の世界に入っていかなくてはならない。それが、プーとの別れなのだ。その少年の心がここに切なく美しく描かれる。
だが、それは本当の別れではないと、ミルンは本の前書きで子どもたちを安心させていた。
《プーは・・・やがて目をとじ、こっくりこっくりしはじめ、わたしたちのあとから、ぬき足さし足、森へやってまいります。そこへゆけば、わたしたちはまだ、魔法の冒険に出あいます。・・・けれども、朝、目がさめると、もうその魔法は、わたしたちがつかまえないうちに、逃げていってしまいます。
・・・これはもちろん、ほんとの「さよなら」ではありません。なぜなら、森はいつでもそこにあります・・・そして、クマの仲よしは、だれでもそれを見つけることができるのです》
森にはいつでも帰ってこれるのだ。

最後はこうなる。

《「たとえ、どんなことがあっても、プー、きみはわかってくれるね?」
「わかるって、なにを?」
「ああ、なんでもないんだ。」
そういうと、クリストファー・ロビンは、笑って、はね起きました。
「さァ、いこう。」
「どこへ?」
「どこでもいいよ。」と、クリストファー・ロビンはいいました。
そこで、ふたりは出かけました、ふたりのいったさきがどこであろうと、またその途中にどんなことがおころうと、あの森の魔法の場所には、ひとりの少年とその子のクマが、いつもあそんでいることでしょう。》

その魔法の場所のモデルになったのが、写真の丘だという。

北朝鮮の人権問題を追及している三浦小太郎さんは、「魔法の丘」を守るために戦うことが本当の平和主義だと主張する。
《子供達から「魔法の丘」を恐怖支配によって踏みにじろうとしている金正日独裁政権が「文明社会に存在してはならないこと」が私達の対北朝鮮姿勢の原点であるべきなのだ。
 数百万の子供達に直ちに与えられなければならないのは、独裁政権のもとで恐怖で脅えながら、また裏返しの、世界をすべて敵と見なしながら生きる生のためのパンなどではない。すべての子供達が、自由に本を読み、考え、魔法の丘をいつでも訪れることができるような社会である。》
真の「ラディカル(根底的)」というのは、こういう思想であろう。