六本木通りの歩道わきに、ハルジョオン(春女苑)が群生していた。どこにでも生えるハルジョオンを昔は「ふてぶてしい」と感じたものだが、今は「がんばっているな」と好意的に見るようになった。「わびさび」を気取っているわけではない。きっと歳を取ったからだろう。
横田早紀江さんは、めぐみさんが成人になる年にキリスト教の洗礼を受けた。めぐみさんが失踪して7年後の84年だった、
人からの勧めはあったものの、早紀江さんは聖書と向かい合うことで信仰の道に入った。
聖書のどの部分が心に訴えかけてきましたか、と私が聞くと、早紀江さんは「たくさんあって選ぶのが難しいのですが」と断った上で、新約の「ヨハネの福音書」第9章を挙げた。第9章はこうはじまる。
《またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」》
そして、イエスは地面に唾して泥をこね、その泥を盲人の目に塗って、目が見えるようにした。こうしてイエスは「神の子」の証を示した。この人が生まれつき盲目だったのは、奇跡のような「神のわざ」を現すためだったというのである。
キリスト教の風土で育っていないと、この理屈を素直に受け入れるのは難しい。詭弁ではないかと反発を感じる人も多いのではないか。
だが早紀江さんは、めぐみさんの失踪に神の計らいを見るという独自の読み込みによって、深い癒しを得たのだ。
私は99年に出した拉致問題の本『娘をかえせ 息子をかえせ−北朝鮮拉致事件の真相』(旬報社)でこう書いている。
「めぐみの運命に、神は大きな意味をこめているのかも知れない。いや、きっとそうに違いない。そう信じて生きていこう。
早紀江は長い苦しみを経て。聖書の教えのなかに心の支えを見いだしていた。」
ある牧師に、私は早紀江さんのこの「読み」について語った。するとその牧師は即座にこう言った。
「ああ、そういう解釈は間違っていますよ」
(つづく)