天皇制は悪くない−その2

おととい、世界の最先端は王制だとぶち上げた。王は特権的な存在なのに、王制の下で、世界で最も平等な社会が築かれているというのが面白い。
そこで挙げた先進国の王制は「君臨すれども統治せず」(The king reigns, but does not govern)の原則に立つ立憲君主制で、共通の歴史的な背景がある。
フランス革命が王を殺して共和制化した典型であるのに対して、王制が残った国には、長いこと平和な環境があった。王制を残した国の多くは植民地化あるいは占領されたことがほとんどなく(むしろ植民地化する側にあった)、また深刻な内戦、内乱を経験しなかった。幸運な国家群といってよい。
もっとも、王制の存在感は、途上国の方が大きいと思う。
私はフィリピンとタイで暮したことがある。しかも大きく政治が動く時期に居合わせた。フィリピンではマルコスからアキノへの86年の政変を、タイでは85年のクーデター未遂と91年のクーデターそして92年の民主化事件を経験した。
フィリピンでは、いったん変化が起きはじめるとどこまでいくのか分からない危うさを感じた。一方、タイにいたときは、政権が変わろうが、クーデターが起きようが、最後は王室があるという安心感があった。いわば、国家の「つっかい棒」である。92年は軍の発砲で流血の事態になったあと、王様が介入して、対立する軍部と民主化勢力との抗争を中止させた。軍をバックに権力の絶頂にあったスッチンダ首相が、国王の前の床に座り、国王の言葉に頭を垂れて神妙に聞き入っている姿がテレビに流れたときは、王の権威の大きさに驚いたものだ。直後首相は辞任し破局は免れた。タイでは王様は「つっかい棒」であるだけでなく、強力な「切り札」でもあった。
長い時間の枠組みでみれば、王様という存在はなくなる方向にいくだろう。しかし、人類史の現在は、王制の良さを発揮しうる発展段階にあると思う。だからこそ、カンボジアのように王制を復古する国があったりするのだ。
ここでは、天皇に戦争責任があったかどうかという問題には触れないが、もし、天皇を処罰する、あるいは退位させるという方向で戦争が清算されていたならば、日本人の精神を深いところで変えたに違いない。決して今のような「マイルド」な日本にはならなかっただろう。
それにしても、日本の皇室は他の王家とは歴史の長さが違う。こないだ、日本にはとんでもない老舗のお店がたくさんある話をしたが、これと通じるものがあるのかもしれない。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080126
いま世界では、地球環境の破壊、資源枯渇、食糧不足、国内では年金破綻、少子高齢化、食糧自給率の低下、地方の衰退など緊急の課題が山積している。今は天皇制(王制)を廃止するかという問題を争点にする段階ではなく、むしろどう生かすのかというふうに考えていくべきではないか。
日本は政権交代がなさすぎると思う。我々には強力な「つっかい棒」があるのだから、政権が変わっても怖くない。であれば、早く自民党を引きずりおろして、別の政権に交代しようではないか。皇室がちゃんとしている限り、この国はかなりの冒険をしても大丈夫なはずだ。せっかく立派な王制を持っているのだから、いいことに利用しなくては。
日本が王制であること、王制は民主的でありうることを自覚していないから、「君が代」が国歌であることに抵抗感が出てくる。「君が代」は民主的じゃない、などと。王制の国なのだから、国歌が王を称えるものであってもよいのだ。自覚してちきんと歌おう。英国国歌(女王陛下万歳)やスペイン国歌(国王行進曲、ただし歌詞はない)のように。
日本が王制であることを自覚し、皇室との関係をすっきりしたものにしたい。皇室の一員が病気になっているのなら、変なかんぐりをされないようにそれを公開し、治療を優先させるべきだ。病気治療中なら、レストランに行ったり実家に帰ったりしてもかまわないではないか。とりあえず、必要な情報は隠さずに伝え、国民が暖かく見守るという、簡明で健全な関係を作っていければと思う。