幸せになりたい?その2

takase222008-02-24

嵐のなか梅が咲いていた。風に揺れる枝にしっかりと咲いていた。
さて、おとといの続き。
娘はこう言う。
「いつも幸せを目指す姿勢が大事なんだよ。苦しいことをばねにして次はきっと幸せになれると考える。不幸があるから幸福がよりすばらしくなる。そう思うとつらくないんだよ。スイカに塩を塗ると甘さが引き立つでしょ」
私は言う。
「それって、不幸なのにそれを無理やり幸福と感じようっていうんじゃないの。『泣くのはいやだ、笑っちゃおう』、みたいに」
「多少、無理やりでもいいんだよ。とにかく、前向きに幸せに向かっていくのが大事だと思うよ」と娘。
「感じ方だけじゃなく、誰が見ても不幸、どうしようもない不幸ってあるんじゃないか。例えば、一文無しでホームレス寸前、そこに自分が末期がんで余命いくらもないと判明、呆然としていたら、家族が目の前で交通事故にあって全員瀕死の重傷・・・」と私。
娘は笑いながら、「ひどいねぇ。でも、その後に、幸せがくれば、その幸せって素晴らしいね」。
幸せについて話し出すと、娘もよく議論に応じてくる。ふだんはおちゃらけた人でも、幸せって何だろうと話を向けると真剣に話し出すものだ。それだけ身近で大事なことなのだろう。
「幸福論」というタイトルの本がどのくらいあるのか検索するとその数の多いこと。アラン、ヒルティ、ラッセル、ヘッセなどの外国の権威によるものの他、福田恒存吉本隆明寺山修司新井満から人気格闘家だった須藤元気中村うさぎの本まである。グレートジャーニーで知られる探険家の関野吉晴さんとフォトジャーナリストの長倉洋海さんの共著の『幸福論』もあって、これはちょと読んでみたくなった。世界を回ってきた二人だから、文明と幸福といったテーマや民族による価値観の違い、現代日本的幸福の問題点などが書いてあるのではないだろうか。
幸福は世界中で求められているが、その中身には各地で偏差がありそうだ。
アメリカ人の場合、幸福追求において「成功」、それも社会的成功という要素が非常に重視されていると思う。「サバーイ」(気持ちがよい)が好きなタイ人は、「安楽」重視に傾いているような気がする。心身ともに楽チンな状態をよしとするのだ。
30年以上前、何かの本で幸せの比較を読んだ。
春の日、広い縁側に、猫が寝そべっている。風のないポカポカと暖かい日だ。猫は春の陽を全身に浴び、足を投げ出して、気持ちよさそうに目をつむっている。この猫の幸せを幸福Aとする。
船で危険な航海に乗り出した。案の定、暴風雨に遭って難破しそうになる。何度も死にそうな目にあった末、やっと目指す港に着いた。そのとき、これまでの航海を振り返って「ああ面白かったなあ」とつぶやいた船乗りの幸せを幸福Bとする。
タイ人はかなりの確率でAを支持しそうだ。私はBでいきたいが、多くの日本人もそうではないか。日本人には「達成感」が魅力なのかもしれない。