森光子の大東亜共栄圏2

あっけらかんと明るいイメージの森光子だが、実像はそうでもない。
尋常小学校を出て間もなく父も母も亡くなった。兄が戦死して妹と二人残された。青春は真っ暗な時代」だったという。戦争中は戦地に慰問に行き、戦後は進駐軍のキャンプで歌う日々。なかなか売れず、菊田一夫に見いだされて「放浪記」の林芙美子役をもらったのが41歳のときで、それが初めての主役だったという。実はかなりの苦労人なのだ。
満州から帰った森光子は、昭和18年の7月、南方へ8ヶ月におよぶ慰問に出かける。ニューギニア戦線では死闘が続いていた。乗ったのは太平洋の女王といわれた日本郵船の豪華客船「浅間丸」で数千人の乗客と一緒だった。光子の船には、軍属やその家族、「芸者さんや慰安婦さん」もいた。慰安婦は、芸能人や軍属とともに豪華客船で移動していたのである。
佐世保出航から間もなく、敵潜水艦に襲われ、輸送船団に撃沈される船も出た。シンガポールで船からコレラが出て隔離され足止めを食った後、その年の秋から冬にかけて、いよいよ、ボルネオ、セレベス、チモール、ジャワ、バリと南洋の島々をめぐることになる。
チモール島クバンでの出来事がとても興味深い。
敵国オーストラリアに30分の最前線で、慰問の最中にも空襲警報が鳴るほど緊迫感があった。ある夜明けに、光子らは起こされた。「お見送りしてください」という。それがこう描写されている。
「エンジンの音がするまで、咳をしてもわかるほど静まり返っていた。暗闇で飛行士の顔も表情もわからない。第一、正視できなかった。
私はこっそり持ってきた小さなマスコット人形を飛行士の方のベルトにそっとつけて差し上げた。とがめられるかと思ったら、怒られなかった。一言も声をかけられない。ニュース映画のように手を振ることもなく、静かに深くお辞儀をしてお見送りした。
胸がつぶれる思いで、泣くというのでもなく、ただ涙が自然ににじんできた。(略)
神風特攻隊がまだ始まらないころ、クパンでは二人乗る飛行機に一人で乗って悲壮な出撃をしていた。お見送りは何度かしている。けれど後々まで思い出されるのは、あのときのクパンの出撃だ。」
どう読んでも特攻機の出撃である。昭和19年になる前、18年の秋から冬にかけての出来事だ。しかし、特攻機攻撃は、昭和19年(1944年)10月のレイテ沖海戦に始まるというのが定説のはずである。それより1年近く前に、特攻は始まっていたのか。
森光子の手記が本当だとすれば、こんなに大事な事実が戦史に載っていないというのは驚くべきことだ。あの戦争には、まだまだ多くの事柄が埋もれたままになっているのだろう。
(続く)