森光子の大東亜共栄圏

日経新聞を私はめったに読まないのだが、たまたま、一番後ろの面にある「私の履歴書」に女優の森光子が連載していたのを目にした。読んでみたら、これがとても面白い。
第一回目は、幼い森光子が母に連れられ、京都四条烏丸でござの上に正座しているシーンからはじまる。昭和天皇即位の御大典の行列を待っていたのだ。何時間か待つと「突然大声が聞こえ、皆頭を下げた」。パカパカと馬のひづめの音、そして怒声、頭を上げると天皇も行列も通り過ぎた後だった。
天皇陛下は神様だから見れば目がつぶれる、絶対頭を上げてはならない。固くそういい聞かされていた。大人の人たちは何も見なかったのに『ありがたい、ありがたい』と言っていた」。
まるで、「裸の王様」を「裸だ」と言う子供のようではないか。こんなふうに、邪気も遠慮もない筆致で、昭和という時代が描写されていく。
森光子の身辺雑記なのだが、そこに森繁久弥阪東妻三郎長谷川一夫伴淳三郎藤山一郎ディック・ミネ淡谷のり子田端義夫ら往年のスターが、文字通りキラ星のように登場するのだから、中年以上の読者にとって、面白くないわけがない。
ラカンこと嵐寛寿郎の母親が伯母で、芸名も伯母につけてもらった森光子は、映画界に入り子役でデビュー。昭和12年(1937年)、17歳で新興キネマという映画会社に移った。新興キネマ京都撮影所所長は、後の大映社長で政界のフィクサーともなった永田雅一だった。「毎月25日には、怖い顔の男の人たちが給料を取りにくる」云々と、裏社会との関わりも、あっけらかんと書かれている。
日本が戦争へと向かっていくころから、話は佳境に入ってくる。
新興シネマ時代に「何より悔しかったのは女優の何人かと警察に検挙されたこと」だった。売春容疑だという。京都駅で知り合いの学生さんと偶然会って喫茶店に行ったからだった。「おそらく見せしめだったのだろう。世は軍国調、夫婦が腕を組んで歩いても駄目という無茶苦茶な時代になっていた」。
そして昭和14年(1939年)10月、映画法ができ軍の意向に沿った映画しかつくれなくなり、製作本数も減った。増えたのは軍隊の慰問だった。他の俳優たちと一緒に光子もトラックに乗せられて病院に行き、中国戦線で負傷した兵隊さんのために「歌ったり踊ったりした」。
昭和16年12月に真珠湾攻撃があり、光子は翌年からいよいよ戦地に慰問に行くことになる。東海林太郎率いる外地慰問団は朝鮮半島を北上、満州へと向かった。大連からハルビンへは、満鉄の誇る超特急あじあに乗り、平原を疾走した。
森光子は慰問の情景をこう書く。
「行く先々で兵隊さんは感傷的な歌を聴きたがった」。
「《山の淋しい湖に ひとり来たのも悲しい心・・・》。戦時にふさわしくないと軍ににらまれた高峰三枝子さんの《湖畔の宿》が一番求められる曲だった。後ろは直立不動、前の方々は両手をそろえ、背筋をぴんと伸ばして静聴してくださった」。
兵士らはなぜ、勇ましい曲ではなく、悲しい曲を求めたのだろうか。
森光子の手記を読んでいると、大局を語る政治史や戦史を読むときとは違って、そこに生きた一人ひとりが何を考えていたのかに思いをはせてしまう。それにしても、こんなことが、半世紀ちょっと前に、ほんとうにあったのだなあ。
日本がかつて戦争をしたことさえ知らないという、今の中高生にも読ませたいものだ。
(続く)