アブラゼミが2匹並んでいた。たぶんオスとメスで、これから距離を詰めて交尾に至るのだろうが、暑いのと用事があったので見ることができなかった。セミは長いこと土の中で過ごし、ごくわずかな地上での生を生殖のために生きる。あの鳴き声もそのためと知るとちょっと切ない。
8月の猛暑日が10日になり、記録的な暑さになっているが、一方で、夜は虫の音が季節が秋に近づいているのを知らせてくれる。
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今朝の朝日川柳は「拝謁(はいえつ)記」でもちきりだ。
令和から昭和に戻る「拝謁記」(徳島県 坂本義教)
天皇が「下剋上」と言う空しさよ(山口県 青野浩二)
《初代宮内庁長官を務めた故田島道治(みちじ)が昭和天皇との詳細なやりとりを記録した資料が十九日、公開された。日本の独立回復を祝う一九五二年五月の式典で、昭和天皇が戦争への後悔と反省を表明しようとしたにもかかわらず、当時の吉田茂首相の反対で「お言葉」から削除された詳細が明らかになった。昭和天皇から退位や、改憲による再軍備の必要性に触れるやりとりもあった。
田島は四八年、宮内庁の前身である宮内府長官に就任、四九年から五三年まで宮内庁長官を務めた。資料は「拝謁記」と題された手帳やノート計十八冊。遺族から提供を受けたNHKが公表した。
拝謁記には昭和天皇が式典でのお言葉に、「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(五二年一月十一日)と述べたことが記されていた。吉田首相は「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」と反対。昭和天皇に伝えられ、お言葉から削除された。研究書で内容は指摘されていたが、今回、詳細が判明した。
軍部が暴走した張作霖爆殺事件(二八年)や、青年将校による二・二六事件(三六年)、太平洋戦争などの回想も登場。「終戦で戦争を止める位なら宣戦前か或はもつと早く止める事が出来なかつたかといふやうな疑を退位論者でなくとも疑問を持つと思う」と言いつつ「事の実際としてハ下剋上でとても出来るものではなかつた」(五一年十二月十七日)と後悔を記している。南京事件にも触れ、「ひどい事が行ハれてる」と聞いたとした上で「此事を注意もしなかつた」と悔やんだ。
退位の可能性は繰り返し言及。「講和ガ訂結サレタ時ニ又退位等ノ論が出テイロイロノ情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルル」(四九年十二月十九日)。独立回復を祝う式典のお言葉を検討する中では「国民が退位を希望するなら少しも躊躇せぬといふ事も書いて貰ひたい」(五一年十二月十三日)と述べていた。退位で「日本の安定ニ害がある様ニ思ふ」との言葉もあった。
東西冷戦が激化する中、戦前の軍隊を否定しつつも、改憲による再軍備も主張。「軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいい様ニ思ふ」(五二年二月十一日)。独立回復直後には「侵略を受ける脅威がある以上防衛的の新軍備なしといふ訳ニはいかぬ」(五二年五月八日)と述べた。田島は「政治ニ天皇は関与されぬ御立場」「それは禁句」などといさめている。 (引用部は一部原文のまま)》(中日新聞)
戦後のこの時点で、天皇がかつての軍部の暴走を嫌悪し、戦争について強い「反省」の気持ちを持っていたことが分かる。
また南京事件に触れた点も興味深い。
《昭和天皇は52年2月20日に、自身にも反省することが多くあると述べ、その一つに南京事件を挙げた。南京での行為について、「ひくい其筋(そのすじ)でないもの」からうっすらと耳にしたが、表だっての報告はなかったと明かし、「従って私は此事(このこと)を注意もしなかったが市ヶ谷裁判(東京裁判)で公ニなった事を見れば実ニひどい」と述べた。その上で、「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだ」と語ったとされる》(朝日新聞)
そして注目される三つ目は、改憲による再軍備の主張である。
《「侵略者のない世の中ニなれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会にある以上 軍隊は不得巳(やむをえず)必要だといふ事ハ残念ながら道理がある」「今それがいへぬから困る」(ともに52年3月11日)などとも語り、たびたび吉田首相に訴えようとしたが、田島がいさめたことも記されている》(朝日新聞)
田島がいさめたのも当然で、天皇が改憲せよと首相に訴えるなどは憲法違反になる。
一方、昭和天皇は《「再軍備によつて旧軍閥式の再抬頭(たいとう)は絶対にいやだ」(52年5月8日)と述べるなど、戦前のような軍隊や軍閥の復活には否定的だった》(朝日新聞)
天皇の「おことば」は、錦の御旗のようにそれぞれの政治勢力の「取りっこ」になる。憲法上は政治的存在ではないはずなのだが、拝謁記がここまで注目されるのは単なる歴史学の史料的価値を越えて政治的意味をも持つからだろう。
それにしてもよく日記が残っていたものだ。田島本人は、病気で入院するさい、すべて焼くつもりだったのを、親族が保存を主張して焼却を免れたという。
モリカケ問題で日本では公文書でさえ廃棄、隠滅、改竄が頻繁に行われるなか、資料の保存がいかに大事かを見せつけたという意味でも重要な発掘だった。
今朝の朝日川柳からもう一首。
記録とはこういうものと「拝謁記」(東京都 上田耕作)
日記を保存し公開に踏み切った遺族に感謝するとともに、早い全面公開を希望する。
(なお、今回のNHKによる日記公開に批判的な論評として「昭和天皇の戦争責任問題「反省」という点を特筆大書したいNHK特番,田島道治に関する放送(2019年8月18日)は,加藤恭子の17年前の学術研究をどう踏まえているのか」を参照。)
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1075530553.html