サイゴンの踊り子マリコさん

takase222014-03-15

STAP細胞問題で、きのう理研が会見をひらいた。ライブで見ていた。中央に野依良治理事長が。当初出席予定はなかったが、3時間前に出席が決まったという。
 「理研の研究者による研究論文に疑義があったことについて、世間の皆さまをお騒がせし、ご心配をかけたことをおわび申し上げます。」
 あのノーベル化学賞の野依さんでさえ、世間を「お騒がせ」したことを謝っていることに違和感を感じる。
私の理解では、ここまでの調査では、STAP細胞というものが作れるかどうかわからない。小保方さんの瑕疵は重大だ。
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 13日の日記に書いたマリコさん。
 タイ・ビルマ国境、山中のゲリラ基地で出会った彼女は、ドラマのような人生を送っていた。先月号の『週刊女性』にコンパクトな記事があるので紹介したい。
バンコク在住81歳日本人女性の“波瀾万丈”海外生活】
ベトナム戦争下のサイゴンで、死にゆく兵士たちを励ますために踊り続けた一人の日本人女性がいた。混沌としたアジア諸国を渡り、バンコク日本人社会では、知らぬ人はいない存在となっていた。
現在、バンコクで居酒屋「まりこ」を営む武山真理子さん(81)。1932年、台湾・高雄市で生まれる。父は実業家で家政婦がつくお嬢さま育ち。4歳で児童舞踊団に入り、高雄の兵隊の慰問に呼ばれ、無邪気な愛嬌を振りまいていた。しかし敗戦。「親切だった台湾人が、いきなり『日本人帰れ!』と石を投げてきたのが、ショックでした」。’46年に帰国後、フラメンコを学びたいと弟子入りし、米軍基地や各地の公演をこなすうち、日劇からスカウトされた。
スポットライトを浴びる日々は充実感と恍惚感をもたらした。’62年に結婚し、引退。長男が生まれたが、姑にひどくいじめられ1年で離婚。同じころ、父が病死し、観光業界紙の会社を継ぐことに。しかし、社員が会社の金を横領して逃走。そこで、ダンサーも続けていた彼女にアジア巡業の話が。ギャランティのいいこの話に乗った。
 真理子さんが初めてバンコクを訪れたのは’64年。ショーダンサーとしてアジア巡業を回るうちのひとつだった。店の椅子に座り、たばこをくゆらせながら、真理子さんはゆったりと話し始めた。
 「日本人女性は、どこの国でも少なくて、珍しかった時代ですからね。すごく大切にされましたよ。現地の人からたくさんプロポーズされました」
背後の壁には、ショーダンサー時代の華やかな写真。
 「これは日劇のころ。この衣装は、当時の値段で数百万円はしましたね。これはベトナムに行ったころで、韓国兵を前にアリランを歌った時の写真です」
 そして、棚から探し出して見せてくれたのは、彼女を取り上げた雑誌や新聞の記事だった。《女ひとり東南アの暗黒街をいく(「週刊ニュース特報」’64年6・20号)》《戦場の日本人ダンサー ベトナム特派員たちの“伝説の恋人”(GQ JAPAN’93年11月号)》《踊った働いた幸せな人生よ(朝日新聞’08年2月11月号)》など、真理子さんはこれまでさまざまなメディアで紹介されてきた。
日中戦争、第二次大戦、ベトナム戦争、高度成長期と、昭和の激動とピタリと重なる81年の人生だ。ことに、’65年から6年間、ベトナム戦争まっただなかのサイゴンで、米兵のために踊った日本人ダンサーは、真理子さんだけである。
 「衣装はビキニ。炎天下で15分踊るんだけど、盛り上がってくると兵隊たちが『テイクオフ、テイクオフ』って言うんですよ。ビキニのひもをちょっとずらすと、歓声が『わ〜っ!』。でもそこまでですよね、サービスは。兵隊の前でヌードになったら、大騒動になりますから。踊る私の前後左右にMPが立ち、守ってくれていましたから、安心でした」
 ベトナムでは米兵とこんなやりとりも。「マリコ!キミはこんな田舎までくるんだね」「そうよ。この前、一緒にいた友達はどうしたの?」「あいつはあの日、死んだよ」「ああ、そう」話はそれで終わってしまう。死は当たり前のようにそこにあった。》
(つづく)