関東大震災の虐殺100年によせて

 きょう映画『福田村事件』(森達也監督)を観てきた。

 福田村事件とは―

「1923年9月1日11時58分、関東大地震が発生した。そのわずか5日後の9月6日のこと千葉県東葛飾郡福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちにより、利根川沿いで香川から訪れた薬売りの行商団15人の内、幼児や妊婦を含む9人が殺された。」(映画紹介文より)

 9月6日には野田市で福田村事件の犠牲者追悼式が開かれた。近所で親しくしている栃木裕さんがFBで紹介していた。被害者の出身地香川から事件現場に来て、加害者側と一緒に慰霊したという。(一部字句を修正した)

慰霊碑(栃木裕さん提供)

「9月6日千葉県野田市で行われた「関東大震災福田村事件100年犠牲者追悼式」に参加させてもらった。

 被害者家族を含めた香川県からの参加者10数名や地元野田市柏市(元福田村・田中村)の方々など80名の参加だった。

 とても蒸し暑かったけど、炎天下というほどでもなく、心配していた雨もどうにか持ち堪えて、全員で黙祷、焼香、献花をして10名(胎児含む)の方々の冥福をお祈りした。」
(主催者メッセージでは森達也監督と映画への「痛烈な批判と怒りが語られていた」そうだが、これについては後日紹介しよう)

 この事件の後、自警団員8人が逮捕され実刑になったが、確定判決から2年5か月後、昭和天皇即位による恩赦で釈放された。中心人物の一人は、出所後、村長になり、合併後は市議も務めたという。

 結局この事件、処罰も謝罪も公的な慰霊もなく、事実もほとんど知られぬままだったが、事件後77年目にして四国新聞(2009年7月10日)が記事を出している。一部を以下に引用する。
https://web.archive.org/web/20140816211344/http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/098/

概要と経緯

 惨劇は、大正十二年九月六日に起きた。関東大震災から六日目。一帯には戒厳令がしかれ、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などという流言が飛び交っていた。  舞台は、千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)。香川からの売薬行商の一団が地元民に襲われ、女性、子供を含む五家族十五人のうち九人が惨殺された。今なら香川側でも大騒ぎになる事件だが、歴史のやみに沈む。「福田村事件」だ。

●方言が発端

 事件を掘り起こした元高校教諭石井雍大さんらの研究成果を基に、悲劇を再現すると―。  残暑が厳しい日だった。荷車に薬や日用品を積み、幼児を乗せた一行が、福田村三ツ堀の利根川の渡し場に近い香取神社に着いたのは、午前十時ごろ。

 大人たちは、既に玉の汗をかいていた。渡し場まで後二百メートル。団長が渡し賃の交渉を終えるまで、団員は休憩を取る。足の不自由な夫婦と一歳の乳児ら六人は、鳥居の元に腰を下ろし、ほかの九人は十五メートルほど離れた雑貨屋の前にいた。

 この十五メートルの差が生死を分ける。渡し賃の交渉過程で異変が起きた。「言葉が変」「朝鮮人じゃないか」。半鐘が鳴る。生存者の証言によると、駐在所の巡査を先頭に、自警団が「ウンカのごとく」集まったという。

 「どこから来た」。一行は抗弁する。「四国から」「日本人じゃ」。言い訳するほど「聞き慣れぬ言葉」に不審が募る。巡査が本署の指示を仰ぎに場を離れたのが悲劇の始まりだった。

 鳥居組は「逃げ隠れしない。十分に調べて」という態度だったが、雑貨屋組は抵抗の姿勢を示したのだろう。「やっちまえ」の怒号とともに惨劇の幕が開く。

●死者10人説も

 事件は凄惨(せいさん)を極めた。自警団のとび口が団長の頭に飛び、川に逃れ赤子を抱き上げて命ごいをする母親を竹やりが襲う。泳いで逃げる者は、船で追われ、日本刀で切られた。発砲もあったという。

 殺されたのは、二十歳代の夫婦二組と二歳から六歳までの子供三人、そして二十四歳と十八歳の青年の計九人。母親の一人は妊婦。「死者は十人」とする研究者もいる。近辺で続発した虐殺の中でも、最も悲惨な事件となった。

 鳥居の側にいた六人にも危険が迫った。全員、針金などで縛られ、川べりに連行される。投げ込まれる寸前、馬で駆け付けた野田署の警官に保護された。土壇場の救出劇だった。

●村ぐるみ

 現場は福田村だったが、襲ったのは同村と隣の田中村(現柏市)の自警団だった。「田中村の者が扇動した」との証言もあり、石井さんは「正確には福田・田中村事件だ」という。

 無論、襲った側も無傷では済まない。八人が殺人罪で逮捕され、三年から十年の懲役刑となる。が、大正天皇崩御昭和天皇の即位に伴う恩赦で、全員、間もなく釈放される。

 背景には、彼らを保護する時代の空気があった。取り調べの検事は「彼らに悪意はない。ごく軽い刑を求めたい」と新聞に語り、村は弁護料を村費で負担。村民は義援金を集めたり、農作業を手伝うなどして留守家族を助けた。

 犯人は村の「代表」の扱いだった。事実、中心人物の一人は、出所後、村長になり、合併後は市議も務めたという。

 こうした千葉側の雰囲気は、事件をタブー視する空気を醸し、香川側の地元村や県も、なぜか「事件はなかった」かのように扱う。こうして九人の死は、近親者の胸の中にしまわれた。

●部落差別の視点
 「部落差別の本質を明らかにする事件だ」。研究者の努力で浮かび上がった事件の輪郭に敏感に反応した団体がある。部落解放同盟県連三豊ブロック連絡協議会(中嶋忠勇議長)と県人権研究所だ。

 行商の一行は、全員が三豊郡内の被差別部落の出身者だった。「誤認殺人かどうかは別にして、怪しければ排除していいという考えがあったのでは」「県や村がなかったことのように扱ったのは、部落差別ではなかったか」という疑念が生じたからだ。

 両団体は現地視察を重ねて知見を集める一方、行政にも呼び掛けて三月、真相を究明する調査会を発足させた。この二日、千葉側が設立した「心に刻む会」は、これに呼応する組織。

 事件発生から七十七年目にして、ようやく被害者、加害者双方が心を通わせるテーブルができた。これからは、双方が共同してどこまで真実を発掘できるか。そして、遺骨も墓もないという被害者の慰霊をどう実現するかが、焦点となる。
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 にわかに信じられぬ残虐非道だが、こうした事件は関東を中心に数多く起きていた。

 あらためて関東大震災100年を虐殺の視点で振り返る。

(つづく)