フィリピン今昔紀行―スラムで撃たれたカメラマン 

takase222007-10-15

ゆうべは、たまたまマニラにいたジャーナリストの近藤晶一さんと夕食を取り、彼の行きつけの日本人向けカラオケクラブに行った。そろいのドレスのホステスたちが「いらっしゃいませー」という声で迎えてくれた。
韓国歌謡をメドレーで歌いまくっている人がいるので、ホステスに聞くと、コリアンの常連だと言う。昔はこうしたカラオケには日本人しか来なかったものだが、様変わりだ。
写真は、客の歌に合わせて踊るホステスたち。彼女たちの掛け声、歓声が店内を盛り上げる。
テーブルについた4人のホステスのうち、2人は子持ちで、女手一つで家族を支えているという。彼女たちは実にあっけらかんと生活臭を漂わせて仕事をしている。私のそばに座った女の子は、日本に行って稼ぎたいがとても難しいと嘆いていた。アメリカから「人身売買」を野放しにしていると批判を受けた日本が、05年から一気に入国を厳しくして、フィリピン女性の入国は現在04年の10分の1になったという。
近藤さんが、カメラマンの瓜生敏彦さんを呼んでくれて話をすることができた。だいぶ前に一度だけお会いしたきりだったが、知る人ぞ知る、伝説のカメラマンである。
この瓜生さん、11日の日記に書いた「スモーキーマウンテン」に出会って、人生を変えた人だ。彼はいま、「クリエイティブ・イメージ財団」という会社を立ち上げ、フィリピンの現実を変えようと闘っている。ホームページhttp://www.creativeimage.ph/japan/aboutus.htmlにはこうある。
《瓜生敏彦は、瓜生家の二男として千葉に生まれた。彼は、「夢」という空想の世界を嫌い、パヤタスまたは、スモーキーマウンテンの苛酷な生活による現実の世界に到達する。19才にジャーナリストとしての志しをもち、25才で映画やテレビのカメラマンになる。1988年には、フィリピンを訪問する国際飢餓対策機構のプロデュースによるドキュメンタリー映画のに参加し、スカベンジャー(ゴミを生活の糧として生活する人々)の生活を中心に貧困という苛酷な現実や問題を取り上げたドキュメンタリー映画を撮影した。撮影する各シーン、取材などで出会った人々は彼に大きな影響を与えた。カメラが動き出すとそこには、現実の世界が映り、悲惨な貧困の世界に住む人々の生活が描き出された。
瓜生氏は、どうしても目的を達成しなければならない気持ちになった。彼にとって生きることは、自分の心の身近にある人々と共に生活することだった。特に次の世代を受け継ぐ子どもたちへの支援と保護、彼の目標と望みは、子供たちに良い教育を保証することであった。
目標を達成させるには、自立しなければならなかった。そこで瓜生氏は、クリエイティブ・イメージ(株)を設立した。同社は、パヤタスとスモーキーマウンテンの住民を支援し、人間としての生活を可能にすることを唯一の目的とするクリエイティブ・イメージ財団への資金調達のために、映画制作や貿易などに従事している。》

そして、瓜生さんはスモーキーマウンテンで銃撃される。
《1995年11月27日、スモーキーマウンテンの解体命令が出された。解体作業が開始したが、住民は自分たちに権利があると信じてその権利のために戦った。当時のラモス大統領は、スモーキーマウンテンを商工業地に開発するために21.2ヘクタールのゴミ捨て場の解体を命じた。地域は、住民のための4〜5階建てのローコストまたは、中コスト借地として整地される。しかし紛争は激化した。住民が、機動隊に向かって火炎瓶、石やゴミを投げ始めた。ついに住民と機動隊が衝突したのである。この紛争で一人が死亡し十数名が重傷、その中には、NHKのドキュメンタリー番組を取材していた瓜生氏もいた。彼は、銃撃を受け、腕と肝臓、脾臓に深い傷を負った》(ホームページより)

ジャーナリストが深い取材を続けていくと、いくらでも戦場より危ない状況にぶち当たるという実例でもある。すごい人がいるものだ。同じ日本人であることが誇らしくなる。

スモーキーマウンテンの映像は『忘れられた子供たち―スカベンジャー』、『神の子たち』という映画に結実した。
カラオケはそっちのけで、瓜生さんの話に夢中になって聞き入った。いま瓜生さんはカラオケを何軒も経営しながら、ある遠大なプロジェクトを構想している。それについては、またいつか書こう。
(写真はスラムの子供たち)