9月17日―成田発、ニューヨークへ。
ポスト安部は麻生氏有力と報じられたと思ったら、一転福田康夫氏で決まりだという。この目まぐるしさこそ「今」を象徴しているようだ。
福田氏というと、私の世代は、父親の福田赳夫首相と「一人の命は地球より重い」という言葉を思い出す。
1977年、日本赤軍がダッカで日航機ハイジャック事件を起こし、機内の乗客らを人質として、巨額の身代金と獄中の同志らの解放を要求した。これに対し、福田赳夫首相は「一人の命は地球より重い」と言って犯人側の要求を全面的に呑み、人質は解放された。国際社会からは、テロリストとの取引で悪例を作ったと批判されたが、国内では誰も死ななかったからこれでよかったというムードが強かったと記憶している。
日本は、世界でも珍しいほど、人命が大切にされる国なのである。
8月15日の終戦記念日、NHKが3時間に亘る憲法討論を生放送した。ゲストの識者とスタジオに集った百人ほどの参加者が改憲・護憲の論戦をするという趣向だった。
9条をめぐる議論が白熱してきたとき、沖縄で平和ガイドをしているというおじいさんが、「沖縄には『ヌチドゥタカラ』、命こそ宝という言葉があります。生命より貴い価値はありますか!」と大きな声で言った。おじいさんの確信に満ちた態度と、改憲派を含めた多くの参加者がこれを当然視するリアクションを見て、この考え方が今の日本の国民的合意であることを改めて確認できた。(下に注)
1銭5厘の赤紙で軍に召集され、命が粗末にされた過去への反省として、この考え方が戦後多くの国民に新鮮な感動を与えたことはよく理解できる。あの「ひめゆり」の悲劇を経た沖縄人なら、なおさらその思いが強いこともよく分かる。しかし、生命の大事さだけを無条件にまつりあげて、それをすべての出発点にすることには大きな疑問を持つ。
いま世間には、覚えきれないほどたくさんの健康情報が溢れ、高齢者は長生きの方法を見つけるのにエネルギーを集中させている。長生きをするために生きる、つまり生きることの自己目的化である。何かのために「命を捧げる」などと言うと、頭がおかしいと笑われるだけだ。
これだけ命が大事にされている国で、若い人が自殺、他殺でたくさん命を落としている現実がある。事件を報じるテレビで、コメンテーターは決まり文句のように「命の大切さを教えなければならない」と言う。まだ足りないというのである。
人命の価値の極大化は、はたして健全な社会を作ってきたのだろうか。
きょうから、他国民の命は大事にしないアメリカに出張です。
(注)小林よしのり氏が「ガンジーの非暴力運動は自分の命を投げ出すんですから、命が大事なら非暴力運動はできませんよ」と反発したが、ここを議論すれば、命より高い価値はないという考え方が、普遍的なものではなく、戦後日本的な特殊なものであることだけははっきりしたかもしれない。