岸田内閣で拉致問題の進展はあるのか4

 節季は大雪(だいせつ)で、さすがに寒くなった。

 初候「閉塞成冬(そらさむく、ふゆとなる)」が12月7日から。
 次候「熊蟄穴(くま、あなにこもる)」が12日から。    
 末候「鱖魚群(さけのうお、むらがる)」は17日から。
 サケを食べて熊が冬眠するのだから、時系列では次候と末候は逆では?    

 あと3週で新年か。今年を振り返らなくては。
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 ドイツ初の女性首相となり、16年もの長期にわたってドイツとEUを率いたアンゲラ・メルケル氏が退任した。12月2日に行われた退任の式典では、旧東ドイツのパンクロック歌手ニナ・ハーゲンの「カラーフィルムを忘れたのね」を選んで話題になった。

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「カラーフィルムを忘れたのね」を聴くメルケル氏(テレビ朝日

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ニナ・ハーゲン。いいね!

 以下で曲が聴ける。パンクといっても、おとなしい曲だ。

Nina Hagen - Du hast den Farbfilm vergessen 1974 - Bing video

 

 メルメル氏の数々の名言、名場面がメディアで特集されているが、その中から選ぶと―

 日本の東日本大震災のあと、原発を終わらせ、再生可能エネルギーを推し進める決断をした。19年、Fridays for Futureによる抗議デモがドイツ各地で広がった際の言葉。

「一科学者として感心するのは、グレタ・トゥーンベリが『科学に基づいて団結する』と話すことです。イデオロギーではなく、多くの科学的根拠に基づいて行動しなければいけないことを打ち出していることです。ただ、政治と科学の何が違うかというと、実行に移す大きな力があるということです」

 なるほど。

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2019年12月、ポーランドアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を公式訪問、「私たち全員が責任を負っています。その責任のなかには、過去を記憶することも含まれています」と語った。 https://www.vogue.co.jp/change/article/chancellor-angela-merkel-10-quotes

 「謙虚とは無気力の謂(いい)ではなく、無限を知ったことから生まれるポジティブで、希望に溢れて生を形成する感覚です」(「折々のことば」朝日12月3日より)

 すばらしい。

 こういう哲学的な言葉を日本の政治家からも聞きたいものだが・・。
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 前号のつづきで、田中実さんの拉致について。

 田中さんの拉致は、日本における北朝鮮工作組織の一つ「洛東江」(ナクトンガン)の工作員だった張龍雲(チャンヨンウン)氏が暴露して表面化した。

 私は張氏の神戸の自宅に通って取材した。コーヒーが大好きだと知り、お土産にはコーヒー豆を持って行った。糖尿病が悪化していて、顔にやつれが見えたが、インタビューには時間を延長して応じてくれた。信頼関係があったからか、張氏の著作朝鮮総連工作員~「黒い蛇」の遺言状』小学館文庫)の解説を書かせてもらった。

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1999年刊

 この本から田中実さん拉致の事実関係について紹介しよう。

 ラーメン店を経営していた韓という男は、張氏と同じ組織の工作員で、山口県長門市近くの海岸をゴムボートで出て、沖合に待機していた潜水艦に乗り込んで北朝鮮の元山に行った。そして労働党に入党し、新たな任務を帯びて再び非合法で日本に戻った。

《拉致誘拐した田中実には身よりがない。幼いころ両親は離婚し、その後両親とは一度も会っていない。

 1978年6月6日、成田より出国した田中は。韓の経営するラーメン店で働いていた。彼は韓を兄とも思い、なんでも相談していた。

 韓は彼を言葉巧みにオーストリアのウィーンまで誘い出している。ウィーンには北朝鮮の情報機関「ゴールデンスターバンク」があり、西側への窓口としての役割を果たしていた。

 ウィーンからモスクワまでは社会主義国家を経由した陸路で、そしてモスクワから平壌までは空路を利用した。

 ソン・イルボン(労働党の工作機関「3号庁舎」の幹部)はこの拉致事件を私が承知しているものと勘違いし、「田中実は平壌に連れてきた後、平壌の生活になじまなくてしばらく手を焼いたが、日本人と結婚させ子どもを一人もうけ、現在はやっと落ち着いている。職業はラジオ放送の翻訳の仕事をさせている。日本には安心するように伝えてくれ」と話した。

 私は韓の店から田中が姿を見せなくなったことには、何の疑問もいだかなかった。

「どうせやめてどこかの店に移ったのだろう」と思っていたからだ。だからこの話を聞いて愕然とした。》(P117-118)

 ソン・イルボンとは、北朝鮮の工作機関「社会文化部」の幹部で、万景峰号に乗って、しばしば日本を訪れ、工作員を指揮していた。

 張氏は田中さん拉致を告白してから、拉致の解明に積極的に協力するようになり、被害者家族とも会っている。本には《ある方の家族とお会いしたが、その無念を思うと自らを恥じ入ることしか私にはできなかった》とある。工作員時代の所業を恥じ、後悔していた。

 なお、田中さんが《子どもを一人もうけ》たとあるが、張氏が横田めぐみさんの両親あてに書いた手紙(これを私は見せてもらった)には「一男」と記されていた。

 金田龍光さんのケースは、田中さんに続いて発覚した。特定失踪者問題調査会のファイルに概要が紹介されている。

《金田さんは韓国籍。田中実さん(昭和53年に拉致)と同じ施設で育った。昭和52年ごろ、田中実さん拉致実行犯韓竜大が経営するラーメン店「来大」に就職。昭和53年に田中実さんを「来大」に紹介し、ともに働く。昭和53年、韓竜大の誘いにより、田中実さんがオーストリア・ウィーンに出国。半年ほどして、田中実さんが差出人になっているオーストリアからの国際郵便を受け取る。その内容は「オーストリアはいいところであり、仕事もあるのでこちらに来ないか」との誘いであった。田中さんの誘いを受け、打ちあわせと言って東京に向かったが、以後一切連絡がなく、行方不明となる。連絡がないことを不思議に思った友人が、この間の事情を知る韓竜大に再三説明を求めたが、「知らない」と繰り返す。その後失踪した2人を知る友人たちの間で「2人は北朝鮮にいる」との噂が広まり、韓竜大に近づくものがいなかった。「救う会兵庫」は平成14年10月に韓竜大、15年7月にその共犯である曹廷楽についての告発状を兵庫県警に提出している。》金田 龍光 | 特定失踪者問題調査会 (chosa-kai.jp)

 私たちは張氏の証言をもとに、二人の失踪に関与した人物にあたり(取材当時、韓は青森県八戸市に住んでいた)、その他の取材を重ねたうえで、1999年段階で、田中さんも金田さんも北朝鮮に拉致されたことは間違いないと結論づけていた。その後、2005年、政府は田中さんを拉致被害者に認定した。

 一つ留意したいのは、北朝鮮工作機関は身寄りのない人を拉致対象に選ぶケースが多々あることだ。いなくなっても騒がれず、発覚を防げるからだ。二人は養護施設で育ち、連絡をとっていた親族はいなかった。田中さんの拉致は政府認定なのだが、家族会に参加する人もおらず、一般にはあまり注目されていない。
(つづく)

岸田内閣で拉致問題の進展はあるのか3

 12月7日、風雨のなか、新木場のUSEN STUDIO COASTで、GLIM SPANKY (グリムスパンキー)のライブを観てきた。彼らのライブを観るのはこれで2回目。

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GLIM SPANKY の松尾レミ(左)と亀本寛貴

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新木場のUSEN STUDIO COAST

 GLIM SPANKYはここ1年私がハマっているロックデュオでボーカルの松尾レミとギターの亀本寛貴が長野の高校時代に結成したという。コロナ対策で入場者を通常の半分に抑え、「大きな声は出さないでください」という制限下だが、1000人超のファンが21曲を存分に楽しんだ。

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7日は松尾レミの30歳の誕生日だった。会場で記念写真。(GLIM SPANKYのインスタグラムより)

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松尾レミのデザインのTシャツ買っちゃった

 松尾レミはジャニス・ジョプリンの再来などと言われているが、メジャーデビューの2014年にMOVE OVERをカバーしている。媚びないストレートな歌いっぷりがとてもいい。
 他のバンドが英語の歌詞で海外進出しようとするのに対して、GLIM SPANKYは日本語での曲作りにこだわっているが、松尾レミは英語の歌もうまいことがわかる。

www.youtube.com

 松尾レミがMOVE OVERをカバー

www.youtube.com

 ジャニス・ジョプリンと聞き比べるとおもしろい。


 近く新しいアルバムを出すとのことで楽しみだ。
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 前回のつづきで、日本政府が北朝鮮からの「中間報告書」の受け取りを拒み、田中実さん、金田龍光さんという二人の新たな生存情報をかたくなに隠そうとしていることについて。

 このかんの経緯につき、Buzzfeedが簡潔にまとめている。

北朝鮮による拉致被害者として認定されている田中実さんが、妻子とともに平壌で暮らしていると北朝鮮側が日本側に伝えた。政府関係者の話として、共同通信が2月15日に報じた。2014年以降の両国の接触で複数回、伝えてきたという。
 
 田中さんは兵庫県神戸市の元ラーメン店員。1978年6月、成田空港からウィーンに出国後、消息不明になった。当時28歳だった。

 政府発表によると「北朝鮮からの指示を受けた店主にだまされて海外に連れ出された後、行方不明となり、北朝鮮に拉致された」という。

 産経新聞(2014年9月2日)によると、田中さんは幼少期に両親が離婚し、神戸市内の児童養護施設で育った。

 共同通信(2018年3月16日)によると田中さんの拉致は、元工作員とされる男性(故人)が「北朝鮮工作員のラーメン店主に、ウィーン経由で連れて行かれた」と告白して発覚した。

 これまでの捜査で、田中さんは周囲に「(元店主に)頼まれた手紙を北朝鮮に持っていけば大金が手に入る」「北朝鮮へ中華料理を作りに行く」などと語っていたことが判明している。

 政府は2005年、田中さんを拉致被害者と認定したが、北朝鮮側は「北朝鮮に入国していない」と主張。

 ところが共同通信(2018年3月16日)によると、北朝鮮は2014年に主張を一転させ、田中さんが「入国していた」と日本側に伝えた。

 北朝鮮拉致被害者の入国を認めるのは、日朝首脳会談(2002年9月)で横田めぐみさんら13人の拉致を認めて以降初めてだった。北朝鮮側は「本人は平壌で家族と共に生活、現地に残る意向がある」と、日本政府に説明したという。

 政府はこれまでに17名を北朝鮮による拉致被害者として認定。これ以外にも、拉致の可能性があるとみられてきた「特定失踪者」として約470人がリストアップされている。

 共同通信によると北朝鮮は、田中さんと同じラーメン店に勤めていた特定失踪者の金田龍光さんにも妻子がいると伝達したという。

 北朝鮮は2014年5月の「ストックホルム合意」後の同年秋ごろ、田中さんと金田さんの入国情報を示している。

 金田さんは1979年11月、欧州訪問の打ち合わせのため「今から東京へ行く」と家族に電話をした後、行方不明となっている。》

「ラーメン店主にだまされ北朝鮮へ」拉致被害者の田中実さん、平壌で妻子と生活 (buzzfeed.com)

 田中実さんは政府認定の拉致被害者なのだが、彼の拉致の事実関係についてはあまり知られていないので、ここで解説しておこう。
 彼が拉致されたことを告白したのは神戸在住の張龍雲(チャンヨンウン)という元工作員だった。
(つづく)

岸田内閣で拉致問題の進展はあるのか2

 新宿を猿が疾走ふと今の居場所が嫌になる気持ちわかる (東京都)上田結香

 今朝の「朝日歌壇」入選作。笑いながらわが身を顧みさせる独特の歌風がおもしろい。上田結香さんの固定ファンもいるはずで、ぜひ歌集を出してほしいな。
 
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11月27日、新潟市横田めぐみさんとの再会を願う同級生によるコンサートが開かれた。同級生のバイオリニスト吉田直矢さん(57)らが、めぐみさんの母・早紀江さんが作詞した「コスモスのように」など10曲を演奏。最後は同級生らが「翼をください」を合唱した。(新潟日報

 先月15日のブログで、日本政府が北朝鮮の中間報告書の受け取りを拒否し、政府認定拉致被害者の田中実さん(78年6月ごろ行方不明になった飲食店店員で当時28歳)と未認定の金田龍光さん(79年11月ごろ行方不明になった。当時26歳)の二人の生存情報を握りつぶしているらしいことを指摘した。

takase.hatenablog.jp

 

 この問題に関しては参議院議員有田芳生さんが複数回、国会で質問しているが、政府は「今後の対応に支障を来すおそれがあることから、お答えを差し控えたい」などとはぐらかしてばかりだ。

 例えば、2019年(平成31年)2月21日の有田芳生議員の「田中実氏の生存情報に関する質問主意書

田中実氏の生存情報に関する質問主意書:質問本文:参議院


 政府が拉致被害者と認定している田中実氏に関し、平成三十年の参議院予算委員会及び参議院北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会での私の質疑を踏まえ、質問いたします。


一 私が平成三十年三月二十八日の参議院予算委員会において、「北朝鮮側は田中実さんについてどのように通達してきましたか」と質問したところ、河野外務大臣は、「今後の対応に支障を来すおそれがあることから、その内容については差し控えます」と答弁しました。
 北朝鮮側から田中実氏について通達があったのは事実ですか。また、河野外務大臣の答弁にある「今後の対応」とは田中実氏の帰国に関する対応のことですか。「今後の対応」の中身を具体的に明らかにしてください。

二 私が前記一の予算委員会において、「北朝鮮は二〇一四年に、田中さんは生存していると、そういう報告をしてきたと報道されていますが、事実ですか」と質問したところ、安倍総理は、「コメントすることによってこれを明らかに、明らかにその奪還につながらない場合があるということは御理解をいただきたい」と答弁しました。
 安倍総理の答弁にある「明らかにその奪還につながらない場合がある」とは田中実氏の帰国につながらない場合があるとの趣旨ですか。「その奪還」の中身について具体的に明らかにしてください。

三 北朝鮮側から平成二十六年に田中実氏の生存について通達があったとされてからすでに四年以上が経過しています。政府は、この間、「今後の対応に支障を来すおそれがある」ことを理由に具体的な対応を国民に明らかにしていません。
 拉致被害者の生存情報があるにもかかわらず具体的な対応を明らかにしないことは、「私の内閣で拉致問題を解決する」と明言した安倍総理の責任問題に直結するのではありませんか。安倍総理は「今後の対応に支障を来すおそれがある」場合には、国民に何も語らずにいずれ退陣されるのですか。

四 共同通信は、平成三十一年二月十五日付けで、拉致被害者の田中実氏といわゆる特定失踪者の金田龍光氏の両名が、それぞれ妻子とともに北朝鮮で暮らしていると報じています。
 この件に関して、私が平成三十年六月四日の参議院北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会において、「政府認定拉致被害者の一人が生きていたという報道があったら、それが事実だったら、政府、発表すべきじゃないんですか。あるいは、河野大臣、平壌に行って、本人に会って、どういうことなのかって聞かなきゃいけないんじゃないんですか」と質問したところ、加藤拉致問題担当大臣(当時)は、「慎重に対応しなければならない」と答弁しました。
 政府は、田中実氏及び金田龍光氏の生存情報を受け、担当者を平壌に派遣して両名と面会のうえ、本人確認及び帰国についての本人の意思確認をする用意をしていますか。

五 国内には、ストックホルム合意に基づき、全ての拉致被害者を一人からでも順次取り戻すべきという主張と、全ての拉致被害者の即時全員一括帰国は譲れないという主張が並立しています。
 また、安倍内閣の方針は、ストックホルム合意に基づき、拉致問題をはじめとする日本人に関する全ての問題の解決に向け全力を尽くすというものです。
 政府はストックホルム合意に基づき、田中実氏及び金田龍光氏の救出を目指すのですか。それとも、全ての拉致被害者の生存状況が判明するまで田中実氏及び金田龍光氏の救出を見送るのですか。

六 国内には、政府が拉致被害者と認定した者の家族等で作る「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」と、北朝鮮による拉致の可能性を排除できないいわゆる特定失踪者の家族等で作る「特定失踪者家族会」があり、どちらも懸命に救出活動を続けています。
 政府はこれら両家族会にその家族が所属する拉致被害者又は特定失踪者を優先して北朝鮮から救出するというお考えをお持ちですか。また、政府が田中実氏の救出に消極的なのは、田中実氏のご家族が前記拉致被害者家族連絡会に所属していないからなのですか。

 

 この質問に対する政府の回答は以下だ。

一及び四について

 お尋ねについては、政府としては、今後の対応に支障を来すおそれがあることから、お答えを差し控えたい。

二について

 お尋ねについては、平成三十年三月二十八日の参議院予算委員会において、安倍内閣総理大臣が「拉致被害者の方々を奪還したい」と述べているとおり、「拉致被害者の方々」の「奪還」を意味するものである。

三及び六について

 お尋ねの「安倍総理の責任問題に直結する」、「国民に何も語らずにいずれ退陣される」及び「政府が田中実氏の救出に消極的」の意味するところが必ずしも明らかではないが、政府としては、拉致問題の全面解決に向けて、拉致被害者としての認定の有無にかかわらず、全ての拉致被害者の安全確保及び即時帰国のために全力を尽くし、また、拉致に関する真相究明及び拉致実行犯の引渡しを引き続き追求していく考えである。

五について

 お尋ねの趣旨が必ずしも明らかではないが、政府としては、御指摘のいわゆる「ストックホルム合意」に基づき、拉致問題を始めとする日本人に関する全ての問題の解決に向け全力を尽くしている。これ以上の詳細については、今後の対応に支障を来すおそれがあることから、お答えは差し控えたい。

ーだそうだ。何もまともに答えていない。

 安倍政権は、都合の悪いことについては、公文書を無いことにしたり、書き換えたりまでして隠し通してきたが、この問題、なぜそんなに表に出したくないのか?
(つづく)

このブログで人生が変わったって?!

 ふとん干す太陽系の子どもたち (東京都 尾根沢利男)

 冬の日のお日さまの恵みをスケール大きく描いて気持ちがいい。「朝日川柳」4日の選より。
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 このかん、「行事」が立て込んでせわしかった。おもしろい出会いもあった。

 12月3日、2月開催の日本初のインディーズウェブ映画祭「Japan Web Fest」の「スピンオフイベント」に招かれた。映画祭の2月にはコロナ禍のため、すべてオンラインで行われたが、今回はリアルで現地・オンラインでのトークセッションや交流会が開かれた。場所は代官山のシアターギルド。

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 これは私がドキュメンタリー部門の審査をやったご縁だ。2月の私のトークセッションも今回、再配信された。

takase.hatenablog.jp


 以下はスピンオフイベントの案内文―

 《2019年の国内映画興行収入は、コロナ禍の影響を受けて 261,180百万円でしたが、2020年は143,285百万円へと45.2%減少しました(一般社団法人日本映画製作者連盟調べ) 。また、芸能・映像業界で働くスタッフやキャストへ行った実態調査では、コロナ禍の影響で81.7%の人が収入がゼロもしくは減少したと回答し、56.2%の人が副業または転職について考えていると回答しています(NPO 法人映画業界で働く女性を守る会調べ 調査期間2020/4/19~4/30 調査人数1,715人)。

 そして、依然として映画業界は非常に厳しい状況が続いております。映画業界全体がこの様な状況ですので、インディーズ分野への影響は甚大です。

 JWF映画祭が対象としているインディペンデントフィルムメイカーは自分達で企画を立ち上げ、資金集めも自ら行いその資金で映画を作成し、上映先や販売先の確保、宣伝費用も全て自己のルートで捻出しています。

 そうなると、人の心を打つような作品であっても劇場公開や配給まで行き着かない作品が数多くあるのが現状です。

 そこで、新たな才能を求めるプロデューサーや、ウェブ作品の活用を模索している企業などとマッチングを行うウェブ映画祭を日本でも根付かせることで、インディーズ分野が活性化する。こういった場所を提供したいと考えるようになりました。そして世界のクリエイターに対しても”日本も市場となる可能性”を広げていきます。

 そして、緊急事態宣言も解除された今、解決策の1つとして「第1回Japan Web Fest映画祭(JWF映画祭)に応募された中で最優秀作品3作品の上映・ゲスト講演・対面での交流会」を、対面とオンラインと合わせて開催いたします
(2021年2月開催の第1回JWF映画祭では募集期間2ヶ月にも関わらず世界35ヵ国・計201作品の応募)。

 対面イベントの会場では、メジャー作品や第一線で活躍しているプロデューサー、ラインプロデューサー、監督や撮影監督などをゲストに迎え、業界トークセッションを行います。

 オンラインでは、最優秀作品3作品の監督が、それぞれロスアンゼルス、香港、オーストラリアから参加し、観客と質疑応答や、各国の現在の映画製作事情を共有します。
また、上記に加えて、第1回JWF映画祭にて限定配信され、好評を得たウェビナー、トークセッションも再配信致します。

 この度のイベントを通じ、インディーズ作品の製作に携わる人達が、映画祭のという仕組みを利用して、より活躍の機会を得て欲しいと願っております。》

 世界各国でウェブ映像の進化が続いている一方、日本は周回遅れというより2周遅れみたいな状況らしい。私はウェブ映像には疎く、エンタメにも縁のなかった人間だが、交流会で会った海外で揉まれてきた才能ある若者たちの姿には希望を感じた。日本の状況を変えようという意欲を感じる。

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オーストラリアの監督と結んでの交流会。制作費の捻出方法など実践的なテーマの質疑も

 まったく未知だった世界を知るのは刺激的だ。これからもいろんなところに鼻を突っ込んでいこう。
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 納税シンポの翌日、11月26日、私がインタビューされるという奇妙な出来事があった。先月中旬、15年以上前に某民放局で一緒に番組制作をしたことがあったSさんから、「お会いしてお話を聞きたい」と突然メールが来たのだ。

 Sさんはテレビ局のAD(アシスタントディレクター)を2年ほど経験した後、この業界は自分に向かないと辞めた。その後いくつかの会社を経て、現在は40歳前ながら上場企業2社の役員を務めつつ、個人で10企業ほどに経営コンサルティングを行っているという。

 バリバリの若手経済人の彼がなぜ私に会いたいのか理由を聞いたら、テレビ業界を辞めて何をしようかと考えていた頃、私のこのブログに出会って感化されたのだという。

 え?? ほろ酔いで寝る前にたらたら書いているこのブログに、「世渡りの知恵」めいたことを書いた覚えはないのだが・・。そこで、どんな内容に感化されたの?と問うと。

 「忙しい業務明け、久しぶりにご自宅に帰った高世さんに、娘さんが「お父さんお仕事楽しい?」のような発言をし、それに対し高世さんが、娘が楽しいことを仕事とする考えや理解をしている点について」書いていた。これが一つ。

 また二つ目は、やらなければならないが、やりたくない、危ないから避けたいなどと思うことを「どうやったらやりたいことにできるか?どうやったらやり続けることができるか、色々と試している。」という趣旨の文章を書いていた、そうだ。
(15年も前で、私はあまり覚えていないが・・)

 Sさんが私のブログから学んだのは―
 「好きな事を仕事にするとかしないとかいう話以前に、そもそも好きなことや人より秀でた能力ひとつない自分には、もう好きだの何だの言う必要すらない。」

 そして、「多くの人は自分よりも客観的に恵まれない環境下で、好きでも向いてもいない仕事をしていて、自分はその人たちが負って下さっている負担の結果として日々回っている社会の恩恵を受け、ぬくぬくと生きている。だから本当にできないこと以外のことにはできるだけ取り組み、自分にできる社会還元はしていこう。」と覚悟を決めて必死でがんばった結果、今の自分がいるという。

 「高世さんの言葉」が「私の社会的成功要因の9割です」とも。

 ここまで言われると、恥じ入ってしまう。そんな立派な人間じゃないのに。

 Sさんが今回私と話したいと思ったのは、自身が人生の転機にあるからだという。

 今年子どもが生まれたが、「現在の課題感として『自分は大人として、良い社会を子供に提供できているだろうか?』があり、もっと良い社会を作っていくことに貢献したいし、そのためには自分がもっとレベルアップしないとできないと」「ここ3年は暗闇を手探りして」いて、「今後の課題解決アプローチの糸口が模索できたらと」私にアプローチしたとのこと。 

 26日のインタビューは2時間半、世界情勢から日本の停滞、気候変動、コスモロジーや私の趣味にまでおよび、とても楽しく話せた。
 インタビューは、Sさん個人のためだけでなく、子どもをどう育てていくかの参考にしたいそうだ。

 お役に立てたか自信がないが、このブログには実にいろんな読者がいることを実感し、ちょっと「責任」を感じた次第。といっても、友人に伝えたいことを語りかけるような感じは変えないでいこう。
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 コロナ感染者の減少で、飲み会が多くなった。

 先に書いた3日のJWFイベントの後は参加した知り合いと渋谷の「のんべい横丁」で一杯。1日には大学時代の友人8人が新宿「思い出横丁」(しょんべん横丁)に集まって飲んだ。ここ2年近く、2人、3人で飲むことはあっても8人はさすがに初めてだった。

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思い出横丁。客は戻ってきたが、まだ少ない

 酒を飲む機会が増えると、失敗もやってしまう。
 先月末、近くに住む報道写真家のHさんに誘われて焼鳥屋に。Hさん、同年齢とは思えぬハイスピードでぐいぐい飲んでいくので、私も負けじと杯を重ねる。そこを出て二次会へ・・。どうやって帰ったか覚えていない。
 翌日、連れ合いに飲みすぎだと叱られた。二日酔いの頭でPCを使おうとしたらスイッチが入らない。見ると水浸しだ。私が酔っ払って何か液体をこぼしたとしか考えられない。すぐに秋葉原のPC修理店へ行くと、中でショートして完全に壊れているという。締め切りが近い原稿もあるので、その場で新たなPCを購入。壊れたPCのデータ取り出し費を含め大出費となった。

 それに懲りずに、おとといは深夜酔って電車を乗り過ごしタクシーで帰宅。ちょっと酒を慎もう。

 年甲斐もなく、バカなことばかりやっている。Sさん、このブログ読んでいたら、ごめんなさい。

 

「雪風」に乗った少年、逝く

 毎年、周防大島の「みずのわ出版」から柑橘類を送ってもらっているが、今年はこれ。

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スダイダイ

 酢橙(すだいだい)というのを初めて知った。
 

takase.hatenablog.jp


 毎朝これを搾って蜂蜜とお湯にといて飲んでいるが、風味がすばらしい。体にもよさそうだ。
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 今月13日(土)の講演会駆逐艦雪風》に乗った少年」を聴きにいく。

 戦争を語り継ぐ催しはしばしば高齢者ばかりになるが、今回は若い人がとても多いのが特徴だった。

 主催者がとくに若者に聴いてほしいと、伝手をたどって学生中心に精力的に声をかけた結果だという。

 会場では60人が熱心に話に聴きいり、その他にZOOMで視聴した人もいた。 

 「雪風」は太平洋戦争が始まる前の年に完成し、開戦初頭の南方作戦から、ミッドウェー、ガダルカナル、レイテ、そして戦艦大和の沖縄特攻まで、主だった海の戦い全てに参加しながらほとんど無傷で生き抜いた。「奇跡の駆逐艦」、「神宿る船」とも言われている。

 NHKBSでドキュメンタリー「少年たちの連合艦隊〜“幸運艦”雪風の戦争〜」を去年8月に観ていたが、乗組員の生の話が聞ける機会は貴重だ。

 講師の西崎信夫さんは、94歳の高齢を感じさせない力のある声で、子ども時代から終戦までの体験を1時間半、ぶっつづけで語り続けた。そのパワーには参加者みな驚いていた。 

 さらにすごいと思うのは、西崎さんの記憶が非常に鮮明でくわしいことだ。命がかかっている瞬間の連続だったから、骨肉に刻み込まれているのでしょう、と西崎さんは言う。

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会場は小平市小川公民館

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お元気そうにみえた西崎さん

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著書にサインする西崎さん

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2019年、藤原書店

 講演を流れるテーマは「いのち」だ。万歳の声で戦地に送られる出征の朝、母親がこう言ったという。

「死んではなにもならない。生きて帰ってこそ名誉ある軍人さんだ。必ず生きて帰ってこい」。

 これが復員の日まで、西崎さんの道標となった。

 「戦争中、私は、どうやって生きて帰れるのか、とにかく生きることだけを考えていました」(西崎さん)

 話の中で私がもっとも印象深かったエピソードは、沖縄水上特攻で沈んだ戦艦「大和」の乗組員を救助するシーンだ。「大和」の乗員数3,332名中、生存者はわずか276名。うち105名を「雪風」が救助している。
 「大和」以外の9艦からも犠牲者が600名超出た。多数の遺体が海に浮かぶ中、損害が軽微だった「雪風」の西崎さんたちは、懸命の救助作業を行っていた。

 著書の文章から引用する。
《それは若い兵士を引き上げようとしていたときだった。ロープがなぜか異様に重くなかなか上がらない。よく見ると、右腕をなくして左腕一本で必死にロープにしがみつく若い兵士の足を、太った下士官が掴んで放そうとしない。いくら火事場の馬鹿力でも二人一緒には無理だ。戦場では、強さと優しさは両立しない。

「放せ!放せ!」

と私は怒鳴ったが、太った下士官は絶対に放さない。思い余って、先が曲がった鉤棒(かぎぼう)で下士官の腕を強打すると、もんどりうって波間に沈み、片腕の若い兵士だけを助け上げた。

 その後、海水が背中から白いシャツに入り、プーッと膨らんだうつ伏せの遺体が私の前に来たとき、先ほど鉤棒で落とした太った下士官のように思えて仕方がなかった。その膨らんだ白いシャツが、私に対する怨恨の眼差しのように見えて脳裏に焼き付き、それから74年、忘れた日は一日たりとてない。》(著書P224)

 こういう具体的で生々しい体験があってはじめて、戦争はやってはいけないというメッセージが心に届く。とても聴きごたえのある講演会だった。

 戦争体験の風化が激しいなか、とりわけ若い人たちへの働きかけが重要だと思うので、今回の成功は今後への教訓になるだろう。

 会場で知り合いのTさんが忙しく立ち働いているので、声を掛けたら、彼の奥さんのお父さん、つまり義父が西崎さんなのだという。

 そして講演会から5日後の18日、TさんのFBを見て驚いた。

「本日20時19分に義父が急逝した。死因は急性大動脈解離。」

 13日の講演会のあとに熱が出て腰や膝が痛むなど体調を崩し、18日に容体が急変して入院、そのまま亡くなったという。

 Tさんによれば、西崎さんは講演会のために周到な準備をしておられたそうで、あの日はまさに最後の舞台となった。渾身のメッセージを私たちに託したのだと思う。

 ご縁に感謝し、心よりご冥福をお祈りします。

「李鶴来さん追悼写真展」を見て

 25日、「納税」のシンポジウムに出る前に、九段下によって「李鶴来(イハンネ)さん追悼写真展」を見てきた。
 李さんは、BC級戦犯として裁かれた朝鮮半島出身元軍属で、前日の「朝日新聞」に載った北野隆一編集委員の記事を読んで行こうと思い立ったのだ。

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会場は九段生涯学習

BC級戦犯として裁かれた朝鮮半島出身元軍属の救済を求め続けた李鶴来(イハンネ)さんを悼む支援者らが寄稿した『李鶴来さん追悼文集~不条理を問い続けた生涯を偲(しの)ぶ』が10月に発刊された。これを記念して22日から、千代田区内で追悼写真展が開かれている。
 戦時中に日本軍属だった李さんは、戦後の連合国による軍事裁判で日本人BC級戦犯として死刑判決を受けたが、減刑されて仮釈放された。その後サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復した際に日本国籍を喪失させられ、恩給など援護制度の対象外とされた。日本政府に対して裁判や立法による救済を求め続けたが実現しないまま今年3月、96歳で亡くなった。
 李さんは処刑を免れたが、同胞のBC級戦犯の多くが処刑された。「私の人生は刑死した23人の友人の無念の思いを晴らすこと」と語り、外国籍元戦犯の名誉回復や救済を求める運動に生涯を捧げた。追悼文集には支援者や弁護士、国会議員やジャーナリストら100人以上が寄稿した。「日本人」として裁かれながら日本の援護制度から排除された「不条理」を問い続けた李さんの姿を、それぞれの思い出とともにつづった。
 追悼写真展は25日まで千代田区立九段生涯学習館で。李さんの生涯と、李さんが結成した団体「同進会」の歴史を写真とパネルでたどる。1950年代に鳩山一郎石橋湛山岸信介各歴代首相に提出した要望書も展示されている。(編集委員・北野隆一)》

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李鶴来さん(会場の展示より)

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山本宗補さんの写真が正面に展示してあった


 サハリンの残留朝鮮人と残留日本人、フィリピンの日系人日本兵として戦った台湾先住民など、いわゆる戦後処理に取り残された人々を取材してきたが、朝鮮人BC級戦犯については知らないことも多く、李さんたちの活動に感銘を受けた。生前にお会いしたかった。
 李さんは17歳のときに日本軍軍属である捕虜監視員の募集に応じ、タイとビルマを結ぶ戦略鉄道「泰緬鉄道」の建設現場にために使役されたオーストラリア人、イギリス人、オランダ人など連合軍捕虜を監視する任務についた。
熱帯での過酷な労働、劣悪な生活環境、乏しい食料事情のもと、建設に投入された5万5千人の捕虜のうち1万3千人が亡くなったとされる。戦後、捕虜虐待が問題になり、オーストラリア裁判で死刑判決。のちに20年に減刑された。「日本人」として罪を負わされたのに、援護と補償は「外国人」だからと認められないのは納得できないと、1955年、同じ境遇の韓国・朝鮮人元BC級戦犯者と「同進会」を結成し、日本政府の謝罪と補償を求めて闘い続けた。

戦争犯罪で有罪になった5.700人のうち、朝鮮人は148人(死刑は23人)。このうち実に129人が捕虜監視員の軍属だった。
展示されてあった『京城日報』(京城はソウルのこと)には「大東亜戦に直接協力」「米英人俘虜の監視に半島青年数千名採用」の見出しがある。捕虜監視員を朝鮮半島で大募集したのだ。

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京城日報」

《採用せられた者の任務は単に米英人俘虜を監視するのみでなく、傲慢不遜の彼等に真に日本国民の優秀性を認識せしめて衷心より日本帝国に対する尊敬の念を抱かしむるよう指導するに在るのであってその使命は重く・・》と記事にある。
 朝鮮人青年に、英米人なんてダメな奴らで日本国民がすばらしいということを見せつけようとした。人権尊重とは正反対の「生きて虜囚の辱めを受けず」の軍人精神を叩き込まれて李さんたち朝鮮の若者たちは南方に派遣された。

 李さんが所属したタイの俘虜収容所の第4分所では1万1千人の捕虜を日本の下士官17人と朝鮮人捕虜監視員130人で管理したという。日常的に捕虜が接するのは監視員なので、朝鮮人軍属が追及の矢面に立たされたのだ。

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スガモ・プリズンにて戦犯とされた朝鮮人たちと。左から2番目が李さん(1952年)

 

 李さんは、「都合のいいときは『日本人』、都合の悪いときは『朝鮮人』と使い分けるのは許されない」とつねづね語っていたそうだ。日本人としてとても恥ずかしく、罪悪感をもつ。

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会場は盛況だった。NHKやTBSのドキュメンタリー番組も流された

 裁判では李さんたちの主張は認められなかったが、1999年12月20日最高裁判決は、李さんたちの上告を棄却したうえで、こう述べている。

 《上告人は、いずれも我が国の統治下にあった朝鮮の出身者であり、昭和17年ころ、半ば強制的に捕虜監視員に募集させられ、・・・有無期及び極刑に処せられ、深刻かつ甚大な犠牲ないし損害を被った。
 上告人らが被った犠牲ないし被害の深刻さにかんがみると、これに対する補償を可能とする立法措置が講じられていないことについて不満を抱く上告人らの心情は理解し得ないではないが、このような犠牲ないし損害について立法を待たずに戦争遂行主体であった国に対して国家補償を請求できるという条理はいまだに存在しない。
 立法府の裁量的判断にゆだねられたものと解するのが相当である。》
 
 はやく、李さんたちの無念を晴らす立法措置をしてほしい。

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追悼文集と李さんの本(2016年出版)を購入

 

親子の縁を断ってでも闘う!―あるミャンマー人民主活動家の決意

 お知らせです。

高世仁のニュース・パンフォーカス】No.21「親子の縁を断ってでも闘う!―あるミャンマー人民主活動家の決意」を公開しました。

www.tsunagi-media.jp

 先日、日本に着いたばかりのソーティナインさんというミャンマー人男性に会った。ひどい弾圧下で自由にものが言えないミャンマー国民に代わり、民主化のために闘うために日本にやってきたという。彼に現地の状況と闘う決意を聞いた。

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ソーティナインさん

 【ニュース・パンフォーカス】への補足として、ソーティナインさん(ソーさん)をもう少し詳しく紹介したい。

 ソーさん一家はネピドー(のちの2006年に首都になる)に住んでいた。父は大学教授、母は高校の教師だった。
 「ラングーン工科大学」(現ヤンゴン工科大)に進んで3年目の1988年3月、ソーさんの人生を変える事件が起きる。

 ソーさんの母校の学生のデモ隊と治安部隊が衝突し、治安部隊の発砲によって一人の学生が死亡した。これが全国を席巻した反独裁の民主化運動の発火点となった。
 8月8日、ビルマ全土で大規模なデモが行われ、反独裁を意思表示した。この「8888民主化運動」には、学生だけでなく、僧侶、公務員、軍人にいたるあらゆる階層が参加したが、これに対して軍部は無差別に発砲し、激しい弾圧を行った。

 このとき、母親の病気の看護で里帰りしていたアウンサンスーチーさんが、民衆に押し出されるように登場し、民主化運動のリーダーになった。一方、軍部は9月18日、クーデターを起こして権力を掌握、ここから民衆対クーデター政権の闘いが長く続くことになる。

 ソーさんは当時19歳だった。3月の事件で大学のキャンパスが閉鎖になると、自分の住む地域のストライキ委員会で活動、その副議長として地域をまとめ、運動の先頭に立った。軍部の弾圧は容赦なく、友人や親戚の中からも拘束され、拷問される人が続出した。結局、数千人とも言われる犠牲者を出して民主化運動は鎮圧された。

 ソーさんも指名手配され、治安部隊に拘束されるが、幸運にも、部隊の責任者がたまたま、ソーさんの母親の高校の教え子だった。母親が彼に息子を見逃してくれるよう頼み、ソーさんは「今後、政治活動をしない」との一札を入れて釈放された。

 ソーさんは家に戻ったが、心休まる日はなかったという。連日、ラジオやテレビから流れて来るのは軍を正当化し、民主化をおとしめる放送ばかり。それが耳に入るだけで怒りがこみあげ、腹痛が起きた。犠牲になった友を思えば涙が流れ、生きる気力も失せてしまいそうになった。心身の変調をきたしたソーさんを見かねて、母親が勧めたのが瞑想だった。
 89年8月、ソーさんは得度し、お寺で瞑想三昧の生活に入った。体調は整ったものの、祖国の未来に希望を見出せないため、外国に行こうと考えた。特に良い印象をもっていた日本に行くのが希望だった。しかし、ソーさんが海外に行くことに父親が反対したため、お寺の中に開設された語学学校で日本語と英語を学ぶことにした。語学を学ぶことは楽しかったが、将来が全く見えないままうつうつとした気持ちを抱えたつらい日々が続いたという。

 93年4月、一つの出会いがあった。バンコクからヤンゴンに取材に来ていた『朝日新聞』アジア総局長の大和(おおわ)修さんが、ミャンマーの若者が何を考えているかインタビューしたいと、人づてに取材を申し込んできた。取材が終わり、大和さんが別れ際「バンコクに来たら遊びにいらっしゃい」と言った言葉で、ソーさんの日本行きの夢がよみがえり、矢も楯もたまらなくなった。

 両親から外国に行く許しを得たソーさんは、バンコクに出て朝日新聞アジア総局を訪ねた。ソーさんを迎えた大和さんは「うちの仕事を手伝わないか」と持ち掛けた。アジア総局では毎日ミャンマーからの放送をモニターして翻訳し、情勢を分析する仕事があった。日本語も英語もできるソーさんはうってつけの人材だったのだ。

 ソーさんは2年ほどバンコク朝日新聞の仕事を手伝ったあと、95年に日本に渡り、難民申請をした。難民と認められたソーさんは、翻訳でミャンマーと日本をつなぐ活動をしながら、日本の中古車を東南アジアに輸出するなどのビジネスを展開し暮らしを支えた。ミャンマー人女性と結婚し子どもも授かった。

 2010年、ミャンマー民主化の兆しが現れる。アウンサンスーチーさんの自宅軟禁が解かれ、翌11年、形式的には文民政権になり、政治犯が釈放された。弾圧されていたアウンサンスーチーさんの政党NLD(国民民主連盟)も活動を再開。12年、アウンサンスーチーさんは連邦議会補欠選挙で当選し、欧州、米国などを訪問、ホワイトハウスオバマ大統領と会談するなど政治家としての活発な活動をはじめる。

 ミャンマーは国際社会から受け入れられ、経済制裁も解除された。ここからは言論の自由を含むさまざまな権利が認められ、15年には念願の民主選挙でNLDが8割の議席を勝ち取って圧勝する。
 
 ソーさんは民主化がすすむミャンマーに期待して、2012年に帰国した。祖国の発展に貢献するとともに、17年におよぶ日本滞在の経験を生かして、ミャンマーと日本の「かけはし」になろうと決めたのだった。

 日本をふくむ世界各国からのミャンマー進出がブームになるなか、ソーさんは日本企業だけでなく、JICA(国際協力機構)やJetro日本貿易振興機構)、さらには国連、世界銀行などさまざまな国際機関で翻訳やコーディネートで活躍してきた。

 人々は民主化の恩恵を心から喜んでいた。自由にモノが言え、好きな商売をやることもできる。海外からの投資が流れ込み、どんどん暮らしが豊かになっていった。独裁的な軍事政権が長かったので、人々にとっては、獲得した自由がなおさら貴重に思われた。

 そこに起きたのが今年2月の軍事クーデターだ。市民たちは全国で激しい抗議行動を起こした。年寄りから小さな子どもまで、街頭に出てデモを繰り広げた。とりわけ自由の空気を知ってしまった若者たちはクーデターに怒り心頭だった。

 デモはあくまで平和的なものだったが、軍は実弾を発射して弾圧し、たくさんの死傷者が出た。ソーさんの知り合いや友人にも傷ついたり軍に拘束された人がいる。

 ソーさんは、軍が市民を暴力支配する現状を許すことはできないと、日本で実名を出し、顔をさらして活動するつもりだという。国を離れるとき、ソーさんは90歳の父親に「離縁してほしい」と言った。ソーさんが民主化のために日本で闘えば、父親が軍ににらまれ、迷惑をかける可能性があるからだ。

 最愛の父との「勘当」まで覚悟して闘おうというソーさんの勇気に、私は胸があつくなった。微力だが、支援していきたい。