『日本のいちばん長い日』によせて4

 

 ミャンマーでクーデターが起きた。

 アウンサンスーチー氏はじめNLD(スーチー氏率いる「国民民主同盟」)の要人、活動家が拘束され、軍部が全権を掌握したもよう。昨年11月の総選挙でNLDが圧勝したが、軍部は選挙に不正があったと主張していた。

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左が今回のクーデターで全権を掌握したミン・アウン・フライン司令官

 ミャンマーでは民族融和はまだ達成されていないものの、言論・表現の自由をはじめとする諸自由は保障されるようになり、民主化の流れはもうひっくり返らないと思っていたが・・・。民主主義の脆弱さを突きつけられた。
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 ワクチンの話題がメディアで盛んに取り上げられているが、日本は他国に2ヵ月以上出遅れているうえ、今後の接種スケジュールも定かではない。政府と地方自治体の間で、また政府の部署間でも情報が共有されていないお寒い状況だ。

 他の国なら政治問題化して内閣がつぶれてもおかしくないのだが、日本では国会でもメディアでもワクチンの後れを厳しく追及するようすがない。これは国民レベルでのワクチン忌避感情がベースにあるからだろう。

 JNNの1月9‐10日の調査では、「あなたはワクチンを接種したいですか?接種したくないですか?」の質問に対する答えは以下のようだったという。
接種したい  48% (↓-4pt )
接種したくない 41% (↑+4pt )
答えない・わからない 11%(→±0pt)
 (カッコ内は12月5日,6日調査との比較)
https://news.tbs.co.jp/newsi_sp/yoron/backnumber/20210109/q2-6.html

 なんと4割が「接種したくない」というのだ。
 ある意味「生真面目」な日本人がここまでワクチンへの拒否反応を示すのは、子宮頸がんワクチンのエビデンスなき副反応をめぐる騒動で、厚労省が腰砕けになった影響だろう。ちなみに日本の接種率は0.3%と異様な低さにとどまっている。

takase.hatenablog.jp


 子宮頸がんワクチンの有効性については国際的にも評価は確立している。
《接種率が低い子宮頸(けい)がんを防ぐワクチンの有効性を示す研究結果が相次いでいる。スウェーデンカロリンスカ研究所はリスクが最大9割減少すると発表。大阪大学は日本の接種率の低下で4千人以上の死者が増加すると推計した厚生労働省は副反応への懸念から積極的な接種呼びかけを中止してきたが、転機を迎えている。》
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66183870T11C20A1TCC000/

 子宮頸がんワクチンの騒動では、ワクチンの危険を根拠なく煽ったテレビはじめマスコミの責任は大きい。コロナワクチンでは積極的な接種を広報することに徹してほしい。
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 1945年8月14日から15日にかけて、皇居で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件(宮城事件)のつづき。

 8月14日午後3時すぎ、丸の内第一生命館(第一生命ビル)で二つの動きが同時進行していた。
 6階には東部軍管区司令部があり、田中静壱司令官(大将)を徹底抗戦派の中心人物、畑中健二陸軍少佐が訪ねた。東部軍管区司令部は、東京を含む関東全域と山梨、長野、新潟の軍政を束ねるところで、畑中少佐は、田中司令官にポツダム宣言受諾を拒否し徹底抗戦すべしと「決起」を促そうとやってきたのだった。終戦決定の報を知っており、同時に若い将校に暴挙を企てるものがあるとの知らせも耳に達していた田中司令官は、畑中少佐を大声で叱りつけた。畑中少佐の「オルグ」は失敗に終わった。

 同じビルの地階では、日本放送協会(NHK)の二人の技師が汗だくで作業していた。ここにはNHKの放送会館が爆撃され、スタジオが破壊された場合に備えたスタジオ「秘密室」が設けられていた。「玉音」の録音が宮内省で行われることになり、録音後の音声チェックのため、当時日本に一台しかなかった二連再生機を取りはずして第一生命館から宮城(皇居)まで運ぼうとしていたのだった。

 この第一生命館は戦争に因縁のある建物で、のちに占領軍に接収され、1952年7月に返還されるまでGHQが置かれた。今も6階にマッカーサー記念室がある。

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GHQが置かれた第一生命ビル

 15日正午の「玉音」放送で終戦に決着がつくまでには、間一髪であやうく事態が重大化するのを防いだエピソードがいくつもあった。

 8月13日、日本から国体問題での問い合わせに対する連合国からの回答が届けられた日の午後、回答にあったsubject toで閣議で紛糾している最中のこと。徹底抗戦派の青年将校陸相に無断で「大本営午後4時発表。皇軍は新たに勅命を排し、米英ソ支4カ国軍に対し、作戦を開始せり」という報勅命令を新聞社と放送局(NHK)に配布したのだ。朝日新聞が確認のため問い合わせてこれがニセの発表であることが発覚し、取り消されたのは放送数分前のことだったという。連合国側は日本の出方を待っているときだったから、これが放送されていれば、どうなっていたかわからない。

 一部の青年将校たちは、彼らの信ずる国体護持がなされなければ、一億玉砕すべしと主張していた。そして畑中少佐らとは別に、複数のグループがポツダム宣言受諾拒否に向けて行動を起こしていた。

 夜9時、ラジオの一日最後の「報道」の時間(当時はニュースのことを「報道」といった)に突然、明日15日の正午に重大放送があるから国民はみな謹聴すべしとの予告放送が流れた。聞く者はいろいろの連想をはせ、徹底抗戦派はその放送を阻止しようと動くことになる。

 深夜11時55分、天皇終戦詔書朗読の録音のために御文庫を出ようとしたとき、突然、空襲の警戒警報のサイレンが鳴って、天皇が一時足止めされたが、空襲はなかった。

 『日本のいちばん長い日』には、「歴史の中にさまざまな想像が許されるならば、たとえば詔書の字句の審議がもっと長びいていたら、井田中佐がもっと早くクーデターに参加することを承知していたら、明らかに敵機が東京攻撃を目標としていたら等々、その結果はこれからどう進行したかわからない。一分一秒の狂いが大きな相違を生んだ。いろいろなことが微妙にからみ合い、まるで“タイム”を競っているかのように、一つの場所に集中殺到していた。」と書かれている。(P114)

 日付が変わる頃、放送協会の人員と機器が待ち受ける内廷庁舎の録音室(御政務室)で天皇による終戦詔書の読み上げが録音された。
 天皇は一度読み終わると、今のは声が低く、うまくいかなかったようだから、もう一度読むと、今の業界用語でいう「テイク2」を要求した。録音盤が2枚つくられた。当時はまだテープレコーダーはなく、音盤(レコード)に録音した。
 録音中、技術スタッフを含む15名近い立ち合い人は緊張し、目頭を熱くして立っていた。天皇もまた眼に涙を浮かべたという。

 正午の放送まで、録音盤をどこに保管するかが問題になった。放送局側は、音盤を持ち帰ることは畏れ多いし、陸軍の一部に不穏な動きもあるとの噂があるので宮内省に保管してほしいと要望。宮内省が2組の録音盤を受け取ったが、どこに置いたらよいか分からず、ちょうどそこにいた徳川侍従に預けることになった。徳川侍従は、皇后官事務官室の軽金庫に入れ、書類をうずたかくその前に積んで一目から隠した。もし、放送局か宮内省が預かったら、叛乱軍の手に入ってしまっただろうという。

 午前1時すぎ、畑中少佐ら数名が、宮城警備を担当する近衛第一師団の森赳(たけし)師団長に面会し、決起を要求したが拒否された。森はじめ軍の高級幹部は天皇が決めたことにはどんなことでも従うという方針だった。激高した畑中少佐は森師団長を銃撃し殺害した。

 叛乱軍はニセの命令を出すなどして兵を動かし、宮城(皇居)の占拠に成功。午前3時すぎには宮内省に侵入し、録音盤の探索がはじまった。兵隊は5~6人がひとかたまりとなって、一つ一つ部屋をしらみつぶしに、開かない戸を蹴破って調べていった。
 
 夜が明け、天皇の身柄確保にいたる前に、反乱軍の企ては失敗におわった。午前11時すぎ、畑中少佐と椎崎中佐は宮城前二重橋と坂下門の中間芝生で自決。正午に玉音放送が流れることになる。
 なお、阿南陸相が15日未明、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を遺し、割腹自決を遂げている。

 朝7時21分、ラジオで再び“予告”が流れた。前夜9時の予告と同じだが、9時の放送では“重大放送”となっていたのが、このときには“天皇みずからの放送”と言い換えられている。
「謹(つつし)んでお伝えいたします。
 畏(かしこ)きあたりにおかせられましては、このたび詔書渙発(かんぱつ)あらせられます。・・・畏くも天皇陛下におかせられましては、本日正午、おんみずからご放送あそばされます。
 まことに畏れ多い極みでございます。国民は一人残らず謹んで玉音を排しますように。
 国民は一人残らず謹んで玉音を排しますように。
 
 なお、昼間送電のない地方にも、正午の放送の時間には、特別に送電いたします。また官公署、事務所、工場、停車場、郵便局におきましては、手もち受信機を出来るだけ活用して、国民もれなく厳粛なる態度で、かしこきお言葉を拝し得ますようご手配願います。ありがたき放送は正午でございます。
 ありがたき放送は正午でございます。」

 言葉遣いに当時の雰囲気が伝わってくる。

 録音盤2組は念には念を入れて、別々のルートで東部軍、憲兵隊に守られた放送局に届けられ、第8スタジオに入った。
 そのとき、護衛兵である一人の憲兵中尉が、軍刀の柄に手をかけ、「終戦の放送をさせてたまるか。奴らを全部叩っ斬ってやる」と叫んでスタジオに乱入しようとした。取り押さえられて事なきを得たが、放送直前のハプニングだった。

 正午の時報、「ただいまより重大なる放送があります。全国の聴取者のみなさまご起立願います」
 「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏(かしこ)くもおんみずから大詔を宣(のたま)らせ給(たも)うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」のアナウンスにつづいて「君が代」のレコードがかけられた。

 続いて、天皇の声が流れる。
 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク・・

 放送が日本の命運を決する役割を果たした日だった。

 近代国家では、クーデター部隊は必ず放送局を占拠して正統性を訴える。
 いまや放送はSNSに取って代わられた感もあるが、メディアと権力をめぐる物語はこれからも続いていくだろう。

 徹底抗戦を唱えて終戦に反対する少壮将校がNHKに乗り込んでピストルを突きつけた報道部の責任者、柳澤恭雄氏
 柳澤氏は、NHKが「報道部」という名の部署がありながらも、自主取材をしていなかったこと、大本営発表をそのまま垂れ流したことを反省し、終戦翌年の1946年、はじめて「記者」職を採用した。NHKの報道部門を一から作り上げた人である。

takase.hatenablog.jp

 その後、レッドパージで柳澤氏はNHKを追われ、「日本電波ニュース社」を創設。私はそこにお世話になり、報道部長をつとめた。
 こうみてくると、私たち「ジン・ネット」にもNHKの報道のDNAが流れていたのかもしれないと思えてくる。

『日本のいちばん長い日』によせて3

 人類最後の日まで残り1分40秒

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 アメリカの科学雑誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」が27日、オンラインで会見をひらき、人類最後の日までの残り時間を象徴的に示す「終末時計」の時刻をこう発表した。

thebulletin.org


 去年1月、「終末時計」の残り時間は、過去最短の「1分40秒」とされ、今年もそれと並んだ。非常に深刻な危機にあるというわけだ。

 去年12月に75周年を迎えたこの科学雑誌は、1945年に、アインシュタインマンハッタン計画で最初の原爆開発に携わった科学者たちが創設。2年後、人類と地球への脅威を伝えようと「終末時計」をはじめた。

 今回、残り時間を(去年と並んで)過去最短にした理由がおもしろい。
 雑誌の責任者のレイチェル・ブロンソン博士は「国際社会は新型コロナウイルスに適切に対応できていない。それは核兵器と気候変動にもいかに準備不足であるかを気付かせた」と述べて、地球規模の課題に国際社会が協調して対処できていないためだと指摘したのだ。

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NHK「国際報道」より

 この会見では、人類はいま目覚めるべきだと「ウェイクアップ・コール」が鳴っているとの表現も使われた。

 なるほど!そのとおり。
 パンデミックにより、世界で200万を超す犠牲者を出しながら、各国が角突き合わせている現状。これじゃ、地球人はまともに核兵器はじめ大事な問題を解決できないな、となるだろう。
 
 《会見には広島県の湯崎知事もビデオメッセージを寄せ、「核抑止力は人間が作った虚構であり、みなが信じるのをやめれば影響力は失われる。私たちはできるだけ多くの人を巻き込んで核兵器の廃絶に向けた力強い機運を作り出す必要がある」と述べて核廃絶への支持と行動を呼びかけた。
 「終末時計」について国連の報道官は27日の記者会見で、深刻に受け止めるべきと指摘したうえで、「『終末時計』は各国に国際協調を通じて核軍縮を進める必要があると訴えている。その一例が国際社会による強力なメッセージとなった核兵器禁止条約の発効であり、もう1つがアメリカとロシアが核軍縮条約の『新START』を5年間延長することだ」と述べて、核保有国が核軍縮の取り組みを強化する必要性を強調した。》(NHKより)
 
 人類は、新型コロナウィルスに知恵を試されている。
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 1945年8月15日の正午の「玉音放送」が終戦を画したとされるが、前日14日昼からの一日は、“24時間の維新”(大宅壮一)と言われるだけあって、波瀾に満ちたものだった。
 『日本のいちばん長い日』の読みどころの一つは、放送―民放などなかった当時は日本放送協会NHK)が唯一の放送機関―にかかわる動きだ。
 最後の24時間に至るまでの経緯を本書はこう描く。

 45年7月26日早朝6時、東京の海外放送受信局がサンフランシスコ放送を傍受し、日本に降伏を求める米英中三国共同宣言=ポツダム宣言が発表されたことがわかった。当時日本政府はソ連を仲介とする和平工作にとりかかっていたから、この宣言は寝耳に水だった。

 政府上層部は緊張に包まれたが、とりあえずソ連からの反応があるまで“静観”することになった。
 国民にはどう発表するか。世界中に放送されたものなので何も発表しないわけにもいかない。あたらずさわらず、戦意を低下させる文言は削除し、政府の公式見解も発表しないことにきまった。新聞はできるだけ小さく、調子を下げて取り扱うよう指導する、政府はこの宣言を無視するらしいと付け加えることは差し支えない。これが政府の報道への方針となった。かなりこまごまと、ニュアンスのレベルまで「指導」している。

 結果、記事からは宣言の以下の箇所は削除された。
 「日本人を民族として奴隷化しまたは国民として滅亡させようとしているものではない」
 「日本国軍隊は、武装解除の後、家庭に還ることを許され、平和的生産的な生活を営む機会を与えられる」

 28日の新聞は、情報局のこうした指令に従って編集され、ほとんどの国民には何の衝撃も与えなかった。
 一方、宣言の発表は、軍部隊からの反発を招いた。前線の部隊は通信機器、ラジオ等で敵側の放送も聞いているので、「反対」を表明しないことには動揺をまぬがれないとの主張に軍部も硬化し、政府に宣言への反対を表明せよと迫った。

 やむなく、政府は積極的には発表しないが、記者の質問に答える形で意思表明をおこなうこととなり、28日、鈴木貫太郎首相が記者会見で「ポツダム宣言カイロ宣言の焼き直しであるから重要視しない」とのべた。ところが重要視しないうんぬんと繰り返すうちに「黙殺」という言葉を使ってしまった。

 新聞は29日朝刊でこれを大きくとりあげ、対外放送網を通じて全世界に伝えられた。ノーコメントの意味で使った「黙殺」がignore(無視する)と訳され、さらに外国の新聞では、日本はポツダム宣言reject(拒絶)したとなってしまった。米英の新聞の論調は硬化した。

 これを後で知った東郷茂徳外相が激怒し、総理談話はソ連からの反応まで静観するとの閣議決定に反すると抗議したが、もはや撤回はできない。この「黙殺」の二字から、米国は原爆投下を、ソ連は参戦を決意したという。(『日本のいちばん長い日』P16)
 報道によって国際的な意思疎通がゆがめられる例である。

 もっとも、東郷外相をふくめ、誰も対ソ和平工作が成功するとは信じていなかった。他に道がないから仕方なくやっていると外相もつねづね語っていたほどだった。

 無為の日が続き、ついに8月6日、広島に原爆が投下される。
 さらに8月8日深夜、待ちに待ったソ連からの回答が来たが、それは宣戦布告の通達で、ソ連軍はすでに国境を突破して攻撃を開始していた。万事窮した。

 8月9日、午前8時、東郷外相が鈴木首相の私邸を訪ね、二人は戦争終結を決意した。午前10時半、宮中において最高戦争指導会議が開かれたが、会議は紛糾。長崎に原爆が投下されたのはこの会議の最中だった。結論が出ないまま中止され、午後2時半から閣議が始まった。
 本土爆撃に来攻した敵機は7月だけで地上機1万2千、艦載機8千。本土の工業地帯、軍基地、都市は次々に灰燼に帰していた。しかもこの秋は、昭和6年以来の大凶作が予想されており、戦う余力は日本に残っていなかった。しかし、阿南陸相は徹底抗戦を強硬に主張した。

 結論が出ないまま堂々巡りで時間が費やされ、閣議は夜10時半に散会。天皇に最終的決裁をあおぐことしか手は残されていなかった。

 午後11時50分、御前会議が御文庫付属の防空壕の一室で開かれた。
 条件を国体護持のみに限る東郷外相らと、国体護持の他に武装解除と戦犯処置を日本人にまかせるなど3項目の条件をつける阿南陸相らと、会議は真っ二つに割れ、10日午前2時を過ぎてもまとまらない。

 「陛下のご聖断を」との鈴木首相の上奏に、天皇は、
 「これ以上戦争を続けることは、わが民族を滅亡させるのみならず、世界人類を一層不幸に陥れるものである。自分としては無辜(むこ)の国民をこれ以上苦しめることは忍びないから、速やかに戦争を終結せしめたい・・」と答えた。

 10日午前2時30分。その場に臨席したものは、声を出して、あるいは声を殺して泣いた。この夜は不思議なことに空襲が一度もなかったという。
 ただちに閣議が再開され、御前会議の決定をそのまま採択した。ただ阿南陸相が「敵が天皇の大権をハッキリ認めることを確認しえない時は、戦争を継続するか」と鈴木首相と米内海相に訊ね、両者とも「継続する」と答え、午前4時、閣議は散会した。東郷外相の頭髪は心労のため、真白になっていたという。

 すぐに「天皇の大権に変更を加うるが如き要求は、これを包含しおらざる了解の下に」ポツダム宣言を受諾する旨の電報が、中立国のスイスとスウェーデンの日本公使に送られた。

 ポツダム宣言受諾の方針を受けて情報局総裁談が10日夜に放送された。だが、そこには「終戦」の表現はなかった。
 「(略)敵米英は最近新たに発明せる新型爆弾を使用して人類歴史上かつて見ざる残虐無道なる惨害を無辜(むこ)の老幼婦女子に与えるに至った。 加うるに昨九月には中立関係にありしソ連が敵側に加わり一方的な宣言の後我に攻撃を加うるに至ったのである。(略)
 今や真に最悪の状態に立ち至ったことを認めざるをえない。正しく国体を護持し、民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため、政府はもとより最善の努力をなしつつあるが、一億国民にありても、国体の護持のために、あらゆる困難を克服して行くことを期待する」
 あいまいで何を言っているかわからない表現になっている。

 一方、これとほぼ同時刻に、戦争継続ととれる陸軍大臣訓示が新聞社に配布され掲載を要請された。
 「(略)断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ。仮令(たとい)草を喰み土を噛り野に臥するとも断じて戦ふところ死中自ら活あることを信ず、 是即ち七生報国『我一人生きてありせば』てふ楠公救国の精神なると共に・・・」

 こちらは戦争を決してやめないというメッセージになっている。先の情報局総裁談とこの陸軍大臣訓示が同じ11日の新聞に並んで掲載された。これでは国民は何が起きているのかまったく分からなかっただろう。陸相訓示は、軍部の和平妨害策だった。

 ポツダム宣言受諾に抵抗する空気は強く、権力内部の確執は極点に達していた。大宅壮一はこう評している。
「ここに登場する人物は、それぞれ自分の持っている“日本的忠誠心”にしたがって行動し、ぶつかりあっている。だが、ぜんたいをマクロ的に観察し、冷静な判断をくだすという大政治家、大監督がいなかった。そのため、同様の事態におちいった他の国々の場合にはみられない独自の喜劇と悲劇が、出演者の意思にかかわりなく、いたるところでおこった。それだけに、このドラマはスリルとサスペンスにみちた場面を展開した」(序より)

 8月12日午前0時45分、サンフランシスコ放送が、日本側の条件付き受諾の問い合わせへの連合国側の回答を流す。この非公式の回答をめぐって日本の首脳部はまた混乱に陥った。

 焦点の一つになったのが回答文にある「天皇および日本国政府は、連合国司令官にsubject toする」の解釈だった。陸軍は「隷属する」だとし、外務省は「制限の下におかれる」と苦しまぎれの訳を出した。

 ここから両派の動きがあわただしくなる。東郷外相は、連合国回答は不十分ながら国体は護持されるとして受諾の方針に決め、午前11時、天皇から、先方の回答のままでよい、ただちに応諾するよう取運べとの御沙汰を受けた。
 一方、陸海軍統帥部では受諾反対の態度を決め、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は受諾の危険なることを東郷外相より前に上奏している。少壮将校たちは烈しく軍首脳部を突き上げ、阿南陸相も受諾反対を首相に告げた。ただ、米内海相は受諾派だった。

 回答には次の条項もあった。
日本国の最後の政治形態は国民の自由に表現された意志によるものとす」。
 神である天皇の地位を国民の意志によって決めるとは、国体の変革だとの声が大きくなり、テロ、クーデターの情報も流れ、警視庁は危険将校の監視をはじめた。
(つづく)

人道にもとる日本入管の収容制度3

 NHK国会中継を観ながら、怒りと悲しみがこみ上げる。こんな人たちが私たちの命運を握っているのか・・・と。

 第3次補正予算案は、GoToトラベルの第1次補正予算分もまだ使い切っていないのに、さらに追加で1兆円の巨額を投入するなど、菅首相の「国民の命を守りぬく」とのお題目が聞いてあきれる内容になっている。ほんとうに困っている人々への支援が少なすぎる。

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ドイツでは売り上げの75%を支援、この他に「つなぎ支援金」もあるという。「事業規模に応じた補償を」という当然すぎる声を政府は無視している(28日参院予算委、共産党小池晃議員が出した資料より

 27日は、首相が、「持続化給付金」と「家賃支援給付金」の継続、再支給を拒否。そして「いろんな見方がある。対応策もある。政府には最終的には生活保護という仕組みも。しっかりセーフティネットを作っていくことが大事だ」と答弁した。
 要は、コロナ関連でこれ以上の生活支援はしないよ、困った人は生活保護でしのいでね、ということ。GoToトラベルの予算(国土強靭化も補正予算に入れなくていい)を生活支援に回せば多くの困った人たちを生活保護の前で助けられるのに。

 この日、大西連さん参考人として出席した。生活困窮者を支援するNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」の理事長で、「ジン・ネット」では何度も番組取材でお世話になった方だ。

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 大西さんによると、コロナ禍で生活に困って支援を求めてくる人が急増し、年明けには3倍以上になったという。とくに非正規、派遣、フリー、業務委託の人たちが直撃を受けていて、以前から困っている人だけでなく、今回のコロナ禍のなかで、はじめて生活が苦しくなった人が多くいるとのこと。次の仕事が見つからないという。こういう人たちに政府の施策が届いていないケースが多いという。

 生活保護について、必要な人が利用するのをためらうケースが多いと大西さんは指摘した。最大の障害は、扶養照会だ。親族、親戚に問い合わせがいくことを恐れて、生活保護を利用しない人がたくさんいるのだ
 また、地方では公共交通が不便で、自動車が足になっているのに、自動車を持っていると生活保護が認められないケースが多いのも問題だ。

 28日の参院予算委で、共産党小池晃議員生活保護について、補足率が低い、生活保護を利用すべき人で利用している人は2割にすぎないと指摘。また、3人に1人が「家族に知られなくないから利用しない」現状を変えるために扶養照会をやめるよう要求した。

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扶養義務を曽祖父母(ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん)まで、場合によっては、おじさん、おばさんまで広くかけているのは日本だけ

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生活保護の申請は国民の権利です。生活保護を必要とする可能性はどなたにもあるものですので、ためらわずにご相談ください。(厚労省HP)

 コロナ禍のなか厚労省も「ためらわずにご相談ください」とアピールし、菅首相が「最終的には生活保護がある」というからには決断してくださいよ、と小池議員が迫るも、菅首相はいつものようにまともに答えず。

 この内閣はひどすぎる。

 コロナ禍の最中だから野党も自重しているのだろうが、もう「菅内閣打倒」を打ち出してもいいのではないか。
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 アラブの春」からもう10年だ。

 2010年12月18日に始まったチュニジアジャスミン革命。それがアラブ世界に波及し、民主化運動の嵐が吹き荒れた。

 10年前の1月25日は、エジプトで大規模なデモが始まり、30年にわたって独裁的な支配体制を敷いてきた当時のムバラク政権が崩壊に追い込まれた。

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2021年2月カイロ

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 その後、初めての民主的な選挙で大統領が選ばれたが、2013年に軍による事実上のクーデターで追放され、今は、軍のトップだったシシ氏が大統領を務めている。シシ政権は批判的な活動家を次々に逮捕するなど、強権的な手法で締めつけている。
 治安の安定を最優先に掲げるシシ政権は、国の立て直しを進める一方、インターネットの規制を強化して、言論統制を強めているほか、長期政権を可能にする憲法の改正を強行するなど、再び強権的な体制に逆戻りする事態となっている。(NHKニュースより)

 あれだけの大きな運動の末、もとの強権体制に戻ってしまったという事態を当時デモに酸化した人々はどう受け止めているのか、聞いてみたい。
 多くの人々が命を失い、心身に傷を負った。シリアなど国が崩壊したところもある。
 運動に挫折は避けられないとはいえ、渦中の人々はどう納得して生きていくのだろうか。
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 きのうのつづき。
 日本の入管の収容環境は酷いものだ。

 1日6時間の自由時間と40分の運動時間以外は、6畳の部屋に4~5人での居住が強いられる。国籍や宗教の異なる者たちが1日17時間半、何もやることがないまま、一室に閉じ込められるのだ。就寝時には体がくっつくほどの狭さ。窓には黒いシールが貼られ、外の景色は一切見えない。
 家族との面会もアクリル板越しにわずか30分だけ。病気になって受診のための申請書を書いても、受診できるのは10日以上もたってから。そしてもっともつらいのが、基準も理由もいっさい示されないまま、仮放免申請が不許可になって収容がエンドレスに続くことだという。
 私は牛久入管に収容されている外国人およそ20人に面会して話を聞いたことがある。
 1年、2年の収容期間はざらで、3年を超す人が何人もいて驚いた。多くは日本に来て10年以上たち、妻子もいて日本に生活基盤を持っている。
 彼らは異口同音に、「ここは刑務所よりひどい」と訴えてきた。刑務所なら刑期が決っているが、ここではいつ出られるか分からないというのだ。これでは精神バランスを崩すのも当然だ。私が面会した多くの人が不眠に悩まされ、睡眠薬を飲んでいた。
 牛久入管では、18年4月にインド人男性が首つり自殺をし、19年6月には長崎県大村の入管センターで3年7か月も収容されていた通称サニーさん(40代のナイジェリア人男性)が、仮放免を求めたハンストの末に餓死している。07年からのデータでは、全国の入管収容施設で亡くなった外国人は15人。うち自殺者は5人に上る。
 「私は難民申請をしているだけ。悪いことしてない。日本人の奥さんもいる。だのになぜこんなに長く収容されるの?」とデニズさんは訴えている。
 そう、彼らは犯罪者ではない。それなのに、終わりの見えないまま、刑務所以下の環境に置かれ続けている。日本人として認めたくない、恥ずかしいわが国の現実である。
 難民問題というと、中東やアフリカあたりの自分とは関係ない話かと思いがちだが、あなたのすぐ近くにいるかもしれない「難民認定申請者」やその家族の運命にも思いを寄せていただきたいと思う。

 なお、「牛久入管収容所問題を考える会」(牛久の会)によると、コロナ禍での「3密の解消」で、牛久入管では4月以降多くの仮放免が許可され、去年10月7日現在は以前の3分の1の100名以下の収容になったという。
 「ただし、収容の実態、長期収容の実情はひとつも改善されていません。6年以上の長期収容者もいます。8名内外が仮放免の許可を求めてハンガーストライキをしています。」(牛久の会)
http://www011.upp.so-net.ne.jp/ushikunokai/ 
(以上は、先日公開した「高世仁のニュース・パンフォーカス」から引用した)

人道にもとる日本入管の収容制度2

 きょう電車に乗ろうと駅に行った。駅の入り口で、30代のアジア系の女性が近づいてきて、私に透明なファイルに入った紙を見せた。

 「私は〇〇(名前)です。いまこまっています。助けてください。」と書いてある。そしてチョコレートを見せて、買ってくれという。
 突然のことで驚いたのと、急いでいたこともあって、「ごめんね」と言って通りすぎてしまった。ホームに着いてから、ちゃんと事情を聞けばよかったと反省した。怪しい金集めもあるが、ほんとに困っている、例えば技能実習生だったりする可能性はないか。
 
 《新型コロナウイルス禍で働けずに国内にとどまる技能実習生が、昨年末時点で少なくとも1千人超いる一方、昨夏以降に新たに4万人超の実習生が入国したことが朝日新聞のまとめで分かった。実習生は昨春からコロナ特例で「転職」も認められたが、再就職が十分に進まないまま、次の実習生を大量に受け入れている状況が浮き彫りになった。》

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 「失業」中の実習生がいるのに、入国禁止になる前に駆け込みで実習生を呼んだのだろう。日本人でも多くの失業者が出るなか、きびしい状況になっているのではと危惧する。

 身の回りの外国人の境遇をもっと知らなくてはと、自戒をこめて思う。
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 先日書いた、日本の入管の収容制度についてのつづき。

 去年の9月、国連人権理事会の「恣意的拘禁作業部会」は、日本政府に入管法のすみやかな見直しを要請する意見書を送った。意見書は、不法滞在者などを長期に拘束する日本の入国管理収容制度を、「国際人権法と国際人権規約に違反している」と厳しく批判している。

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朝日新聞20年10月6日付朝刊】

 実は、この意見書が出るきっかけになったのは、一年前の19年10月に、日本で難民認定を申請している2人が国連に通報したことだった。

 その一人がデニズさんという、トルコ国籍で少数民族クルド人の当時40歳の男性だデニズさんは国連に通報する直前、自殺を図るまでに追い詰められていた

 19年9月22日、茨城県牛久にある「東日本出入国管理センター」(牛久入管)に収容中のデニズさんは、コーラのアルミ缶を引き裂き、その切り口で手首を切った。続いて首を切ろうとして、同じ被収容者に止められ、事なきを得たのだった。

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【牛久の「東日本出入国管理センター」(筆者撮影)】

 デニズさんが自殺しようとした事情は、彼を取材してきたジャーナリスト、樫田秀樹さんによればこうだ。

 デニズさんは19年6月22日から7月10日までの約3週間と8月16日から9月20日真での約1ヵ月、水だけ摂取するハンガーストライキを行っていた。

 牛久入管では5月から被収容者のハンストが始まり、最大時100人が参加するまでになっていた。ハンストの要求は、収容を一時的に解く「仮放免」だった。牛久では9割以上が1年超も収容されており、中には5年を超える人もいる。被収容者は我慢の限界を超えていたのだ。

 デニズさんははじめのハンストのあと、8月2日に仮放免され、じつに3年2ヵ月ぶりに日本人の妻と再会できた。ところが、その仮放免の期間はわずか2週間だけ。そして8月16日、理由も告げられずに再収容されてしまった。
 再収容されたデニズさんは、その日からまたハンストに入った。そして9月20日、牛久入管は再びデニズさんに仮放免を認めるが、その期間がまた2週間だけだと告げられた。
 自分はもう一生ここから出られないのか!
 絶望したデニズさんは遺書を書き、22日に手首を切った。

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【仮放免され妻と再会したデニズさん(樫田秀樹さん提供)この2週間後デニズさんは再び収容された】

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【デニズさんは手首を切って自殺を図った (樫田秀樹さん提供)】

 デニズさんが生れ育ったトルコでは、クルド人が差別や弾圧を受け、政府への強い反発もある。デニズさんも反政府デモに参加して拘束され、警察に暴行を受けた。2007年、デニズさんは弾圧を逃れ、「平和な国」というイメージを持っていた日本にやってきた。

 デニズさんは何度も難民認定の申請をしているが、いずれも不許可。そのうち観光ビザのままで働いたことが「不法就労」とされ、牛久入管に10ヵ月収容されることになる。その後は仮放免と収容を繰り返し、16年6月から3回目の収容をされていたのだった。

 在留資格のない外国人を収容する施設は9ヵ所あり、2019年6月末時点で1253名が収容されている。牛久入管に収容されているのはうち316名。その3分の2が難民認定申請中か、それが不許可となった人たちで、残り3分の1が、観光ビザや就労ビザなどの在留資格はあったが、オーバーステイなど何らかの法律違反で収容されている人たちだ。

 日本政府は、難民の認定にはきわめて厳しい姿勢をとっている。欧米では、トルコで迫害を受けているクルド人は優先的に難民認定されるが、日本ではまだ一人も認定されていない。

 難民認定の申請が不許可となれば、入管は本国への送還を命じる「退去強制令書」を出すが、そもそもその国にいられない事情がある人たちなのだから、多くは帰国を拒否する。そこで入管は「帰還の準備が整うまで」との前提で、そうした外国人を収容しているわけだ。

 その収容環境は、常識では考えられないほど非人道的なものだ。

(つづく)

世界に蔓延する「ブルシット・ジョブ」

 昨夜は「焚き火のある風人塾」の第一回、「気づきの宇宙史138億年」の「①宇宙のはじまり」をお話しした。年末の入門編=序論につづき、宇宙史ZOOM講演は2回目だ。

 これから「宇宙史の語り部」を名乗って活動しようと思っていて、今回はそのためのいわばデビュー戦。

 宇宙の正体はエネルギーだったこと。エネルギーレベルでも、そこからうまれた物質(素粒子)レベルでも宇宙は一つであること。私たちの体は、ビッグバンの3分後にできた原子核(陽子)でできていること。どこから見ても私たちは宇宙の子であり、宇宙と一体であることなどを話した。

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かに星雲超新星爆発の名残り。水素、ヘリウム以外の元素は原子番号92のウラニウムにいたるまで星の内部の核融合超新星爆発でうみだされた。

 専門的な知識をおぼえてもらうのではなく、宇宙の進化をたどるとどんな「気づき」が得られるか、その「気づき」を重ねていくと、どんな人生観をつくれるかを考えてもらうのが目的だ。
 日本の若者の自己肯定感が、国際比較でみても著しく低いことが気になっていて、このコロナ禍で自殺が増えているというニュースにも心がいたむ。

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 では大人はというと、エゴイズムやニヒリズムにどっぷりつかって、自分が生きているあいだにせいぜい楽しむことだけを考える傾向がつよい。宇宙史講義では、これを乗り越えるコスモロジーを作ろうと提案している。

 きのうは宇宙のはじまりのところなので、宇宙エネルギーが物質化して素粒子ができたことをアインシュタインの公式E=mc2(エネルギーは質量と光速の二乗の積に等しい)を引いて説明した。ちょっとめんどうな話だったが、おもしろがってもらえたようだ。
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 最近見ておもしろかったテレビ番組に、Eテレ『100分de名著 カール・マルクス資本論」』がある。講師は『人新生の「資本論」』の斎藤幸平さん。

 斎藤さんをはじめて動画で見たが、気さくな感じの若者だ。

 

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斎藤幸平さん

18日(月)は第3回「イノベーションが『クソどうでもいい仕事』を生む!?」。
 イノベーションとは労働者を効率的に支配し管理するための「働かせ方改革」であり、さらなる「疎外」をもたらす。

 社会的に重要な仕事に従事するエッセンシャル・ワーカーには長時間労働と低賃金が強いられる一方で、社会的には重要でなく、やっている本人も意味がないと感じている「クソどうでもいい仕事」(bullshit jobブルシット・ジョブ)に高給が支払われる。
 これが資本主義だ、と説く斎藤さんを観ながら、私は、おいおい、これほんとにNHKの番組なのか、とつぶやく。

 ブルシット・ジョブの具体例として公告業やコンサルタント業、投資銀行を挙げ、こう解説した。

 「例えば公告が分かりやすいと思うんですけど、歯磨きの宣伝で、モデルの歯を白くする作業を延々とやっている人たちがいるんですよね。やっている人たちは気がついているわけですよ、いくらモデルの歯を白くしたって歯磨きの性能まったく変わらないよねって。口紅にしたって、パッケージングにお金とかエネルギーを割いてるけど、口紅の品質は1ミリも変わらないわけですよね。
 むしろ宣伝で、この口紅をつけないと、あなたはブスですよ(放送禁止用語ではないか?・・)、みたいな煽りをしてる、それに加担してるってことをやってる労働者たちは感じてる。いま世界中の労働者たちからおれもブルシット・ジョブだったという声がたくさん届いて、キーワードになってるわけです」。

 公告業、コンサルタント業なんて、エリート・サラリーマンで高給でかっこいい仕事というイメージだったと思うが、番組では、無益なつまらない仕事とこきおろされている。言われてみれば、そのとおりだ。小気味よいほど「資本主義」が叩きのめされている。再放送があると思うので、興味のある方はどうぞ。

 

 それから、先日書いた、日本の恥部ともいえる入管収容制度を扱った番組が23日(土)に放送された。
 ETV特集「エリザベス この世界に愛を」。この問題は実態がひどいのに、なかなか注目されない。外国人は票にならないので政治家も動かない。取材するジャーナリストも少ないなか、貴重な番組だった。

 《「愛しているよ」。在留資格を持たず入管施設に収容されている外国人たちに呼びかけ続ける女性がいる。ナイジェリア人のエリザベス。毎日のように各地の入管施設を訪れ、面会を重ね、収容者たちの切実な声に耳を傾け、心の支えになってきた。先が見えない不安を訴える人、抗議のハンストを始める人、ついには命を落とす人も…。1年半にわたって活動を追い、見えてきた厳しい現実とは。そして、彼女自身も深い苦悩を抱えていた…。》

www.nhk.jp

 あ、いま再放送を調べたら、28日の0時からだ。いま27日の23時40分だから、あと20分。間に合わない。すみません。
 でもまた再放送があるはずなので、ぜひご覧ください。

人道にもとる日本入管の収容制度

 はじめにお知らせです。
 「焚き火のある風人塾」宇宙史の語りの第1回目「宇宙のはじまり」があさってに近づきました。ビッグバンから地球の誕生までを語ります。お聞きください。

bonfire-place.stores.jp

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 朝日歌壇(24日)より

襁褓(むつき)してコロナ重症患者らを看護するとう夜勤看護師 (観音寺市 藤原俊則)

 感染予防のための防護服は着脱に手間がかかるので、看護師が自らオムツをつけて一晩中働くさまを詠ったのだという。医療現場を支える人たちの奮闘に頭が下がる。

五十年連れ添ふ夫に初めての賀状を書けり筆先ふるふ (市原市 脇坂百代)

 コロナ感染の予防で面会できない入院中の夫にはじめての年賀状を書く。その筆先が震えるという。切ない気持ちは察するにあまりある。
 
「はづせー」と言はれ一斉にマスク取り撮影すます卒業写真 (町田市 村田知子)

 卒業生のアルバム用集合写真の撮影現場だという。こんな場面を来年は見たくないものだ。

 国会でもいつもどおり木で鼻をくくったような答弁に誠意を感じさせない菅首相。自宅待機中に亡くなった人が18人も出たという医療崩壊状態に、日本の惨状は人災だということがますますはっきりしてきた。
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 日本の入管の収容制度は国際的にも批判を受ける酷いものだが、『毎日新聞』にこんな記事が載った。

《イラン国籍男性、ふん尿まいた疑いで逮捕 過酷な入管収容の末に 4年半「医師から何度も罵倒」》
 「東日本入国管理センター(茨城県牛久市、略称・牛久入管)に4年半近く収容されていたイラン国籍の男性(54)が2020年11月、自身のふん尿で牛久入管の施設を汚したとして建造物損壊罪で起訴された。長期収容で極度のストレス下にあり、「施設の医師から繰り返し嫌がらせを受けて、このままでは死んでしまう」とも訴えていた。支援者によると、同じようなことはこれまで何度も起きているという。人をそこまで追い込んでしまう入管での生活とはどんなものなのか。罪はどこまで問われるべきなのか――。男性との面会を重ね、考えた。【鵜塚健/統合デジタル取材センター】

 男性の名前はヤドラ・イマニ・ママガニ被告。県警牛久署の調べや本人の話によると、20年9月1日、牛久入管の2階にある医務室近くの待合室で、ビニール袋に入れた自身のふん尿をまき、壁や天井を汚し、44万2156円(その後増額)の被害を与えた疑いで牛久署に逮捕され、水戸地検による起訴後も牛久署の留置場で勾留されている。

 ママガニ被告は、日本での在留資格がないとして16年7月から牛久入管に収容されていた。20年春ごろから各入管は新型コロナウイルス感染拡大予防のため、徐々に被収容者の仮放免(移動制限など条件付きで一時解放する措置)を進め、「3密」解消を図っている。牛久入管でも300人程度いた被収容者が100人前後まで減ったが、ママガニ被告は対象外だった。仮放免の条件や基準を入管側は一切明らかにしていない。」(以下略)

mainichi.jp

 ママガニ被告20代のころ、1992年に来日。バブル景気の終盤で日本では人手不足が深刻化していた。当時、日本とイランの間では相互にビザが免除されており、多くのイラン人が来日し、主に建設現場などで他の外国人とともに日本経済の屋台骨を支えた。

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東日本入国管理センター(牛久入管)(高世撮影)

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支援者への手紙(毎日新聞

 在日30年近くで、日本人支援者に書いた手紙から分かるように、日本語は堪能で漢字も書ける。先の見えない長期の収容で、精神がやられる人は多く、私が牛久の施設で面会した人の多くも睡眠薬がないと寝られないといっていた。

 この収容制度の実態はあまり知られていないので、この機会にまた書いてみたい。
(つづく)

『日本のいちばん長い日』によせて2

 バイデン氏の大統領就任演説は聞かせる。
 表情にも誠実さがにじんでいる。応援したいなと思った。
 「(共和党の)赤対(民主党の)青、地方対都会、保守対リベラルを対立させるこのuncivil warを、私たちは終わらせなくてはなりません」と言った。

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NHKはuncivilを「野蛮な」と訳した

 Civil warは「内戦」のことで、この場合civilは、外政でなく国内のという意味なのだが、civilには礼節があるという意味もあって、uncivil warすなわち国内の「礼節を欠いた戦争」(朝日新聞訳)をやめようと訴えたのだ。国内の分断、憎しみあいが内戦に匹敵するような烈しさになっていることを示している。

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聴衆のかわりに星条旗と州の旗が立ち並ぶ

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限られた招待客だけが出席した式典


 2万5千人の州兵が守る中、限られた出席者を前に行われた就任式だったが、そこに台湾代表が招かれたことが注目される。

 《台湾外交部(外務省)は台北駐米経済文化代表処(駐米代表部に相当)の蕭美琴代表が20日のバイデン米大統領の就任式に出席したことについて、「台湾の代表が正式招待を受けて出席したのは(国交断交後)初めてだ」とし、「米台が価値観の共有に基づき、緊密で協調的な関係にあることを浮き彫りにした」と称賛した。》(ロイター)

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蕭美琴氏のFBよりhttps://fb.watch/3ahadwe0FS/

 バイデン政権で台湾支援の姿勢は強まりそうだ。
 台湾自身、コロナ対策に見られるように強烈に存在感を見せつけており、国際社会が台湾を「みそっかす」扱いする時代はもう終わったともいえる。
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 きのうのつづき。

 1945年8月15日の朝、叛乱軍が日本放送協会NHK)を占拠した事件は、日本現代史の重要な転換点の一つだった。
 決起派の首謀者の一人、畑中少佐にピストルをつきつけられたのは、放送協会の報道部副部長柳澤恭雄(やなぎさわ・やすお)氏その人。

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ホーチミンと柳澤氏(右) 日本電波ニュース社HPより

 

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畑中健二少佐 Wikipediaより

 柳澤氏が自書に書いたところを少し長いが以下に引用する。貴重な現代史の証言だ。

 

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 十五日午前三時頃、大橋八郎会長(注:放送協会の)、矢部謙次郎国内局長以下放送局の一行は、録音盤(注:天皇の「玉音」を録音したレコード)を持って帰ろうとしたが夜中の危険性ということもあって、放送局の希望で宮内省にあずけた。そして坂下門(二重橋際)の内側で宮中を占拠していた叛乱軍の部隊につかまり監禁された。録音盤は奥深くかくされていたため、それを探しに宮中へ入った決起派の畑中少佐は見つけることができなかった。彼が録音盤の探索をあきらめたのは十五日の朝四時まえである。監禁していた放送局の技術局長を道案内として車に乗せ、放送局へ向かった。

 私は、叛乱軍が来ればどう対処するかに心を集中していた。畑中少佐が放送局にあらわれたのは午前四時をすぎていた。報道部副部長の私のところへ来た彼は、細面、長身の美男子であり、いかにもエリートらしい白皙(はくせき)の将校である。

 私の胸にピストルをつきつけた。
「決起の主旨を国民に放送させろ。させなければ撃つぞ」
 私は無言でいた。放送をさせるわけにはいかない、とそれだけを考えていた。(略)私は放送をさせるわけにはいかないという任務感、集中感ではりつけていた。私は彼に反抗しない。敵意を示さない。彼の心情を理解したいと思いながら、彼の眼とピストルを持つ手と指を見つめていた。ピストルは、森赳近衛第一師団長を射殺してきたピストルである。宮中で録音盤をさがして見つからず、彼は非常に疲れ、極度に緊張していた。彼のあの眼つきは異様そのもので、私は生涯忘れないし、二度と他に見たことがない。互いに多くのことを語っている眼と眼が相対していた。任務を果たしているのだという具体的で切実なものが私を動かしていた。任務に集中すると、こわさが出てこない。ジャーナリストの場合これがきわだっている。危険の中で危険を報道し危険をのりこえる。これは使命感であって、ジャーナリストの性(さが)である。ジャーナリズムの職業が持つ特殊性で、これが本人を行動にかりたてる。ジャーナリストが戦場で戦死するのも、そのきわだった例であろう。

 畑中少佐と私の眼と眼に何か通じるものがあったのだと思う。彼のピストルの引き金の指がゆるみ、手がやわらかくなった。
「やらせてくれよ、たのむ」
 もう脅迫ではない。
「できないんです」
 と私はこたえた。放送ができないことを実際に説明する必要がある。彼をともなって、となりの第一二スタジオ(ニュース専用スタジオ)へ行った。スタジオには、館野守男アナウンサーがいた。空襲下でスタジオが作動しないことを話して、廊下へ出た。企画部、技術部の職員が大勢で彼をとり囲んだ形になった。

 警戒警報、空襲警報が発令されている間は電波は東部軍管区の管理下におかれる。そのために現に今も電波を出せないのである。畑中が放送するためには東部軍の許可が必要であった。放送局と東部軍は直接電話によって連絡している。畑中は東部軍司令官と電話で話し合うことになった。東部軍の参謀長高嶋辰彦大佐が直接、畑中にあきらめるよう説得した。大佐は畑中の士官学校時代の教官であった。畑中は説得されたのであるが、大佐との電話の前も後も彼をかこんだ放送局の職員たちのチームワークが、たくまずして、しかも必死で危機を解決した。畑中少佐はあきらめて放送局を去った。

 彼は八月一五日午前十一時すぎ、皇居側の松林の中で、盟友椎崎二郎中佐と二人、ピストルで自害して果てた。三十三歳であった。
 畑中少佐は阿南陸相らとともに平泉澄東大教授の皇国史観を信奉し、教授の青々塾に所属していた。この史観によれば、天皇の方針、決意が間違っているならば、自分たちの正しい方針を天皇に採用させることが忠君である。この信念に生きていた畑中にとっては無念至極であっただろう。
 平泉教授は、陸軍士官学校で講義するときは短剣を腰にして教室に入ったという。彼は、海軍兵学校でも講義したいと希望したが、井上成美校長はこれを断った。また、当時、東大の和辻哲郎教授(倫理、哲学)は教室で学生にたいし、平泉教授の学説は「信心カラカラだ」と言っていたという。学問ではなく、信心、信仰だとの意味だろう。

 一九九四年(平成六)、私は京都市に畑中健二少佐の実家を訪ね、霊前に冥福をいのり、令兄からくわしく話を聞いた。畑中家は丹波地方の名家で、そこに育った文学好きの少年が彼であった。旧制の三高へ行くことを希望していたが、中学の先生にすすめられ陸軍士官学校に合格する。それでも三高へ行きたがったが、令兄と先生に説得され士官学校へ行ったという。長身なので私は騎兵出身かと思ったが、令兄によれば砲兵であった。
 自殺したときの遺書を、彼とさいごに相対した人だからというので特別に見せてもらった。自分の信念を軍人手帳に立派な字で鉛筆で書いてあった。黒鉛筆で書いて、さいごの部分は赤鉛筆になっていた。大波乱のあと、今わのきわに心を静めて書いたのであろうが、気丈で、端正な性格を思わせるものであった。ひとりの文学青年が戦争をはさんでたどった人生の軌跡に、私は、深い感慨をもよおさずにはいられなかった。私と相対したとき、決死の畑中にたいし、私が反感を持たず真剣に誠意をもって接したことを彼が感じとっていたのではないか、と今にして思う。一期一会、その若き生涯のさいごの朝に彼と相対した私は、いつも彼にたいする温かいものを感じている。
(柳澤恭雄『検閲放送』けやき出版P114~118)

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(つづく)