大賀蓮と「後世への最大遺物」

 日本からの頭脳流出が本格化している

 6日のNHK「国際報道」では、日本では途絶えそうになった研究を中国が研究環境を提供して続けさせようという医療分野のプロジェクトが紹介されていた。

 神戸市の公益財団法人と中国・成都のスタートアップ企業が手を組んで、肺がんの新たな治療法の開発を共同で行うという。先月、このプロジェクトを1000億円以上の運用実績のある投資会社が支援することが決まった。

ベンチャーにドーンと投資。この勢いは先端科学分野すべてで起きている。(国際報道より)

「一方で中国は新薬のイノベーションと導入を必要としている。いち早い医薬品の研究開発は成功する大きな要因だ」と中国企業(国際報道より)

「研究継続を諦めていたら、今回お誘いがあったから来た。本当にありがたいし、どんどん進んでほしい」と日本の研究者の弁(国際報道より)

 日本ではどこの研究機関も研究費が枯渇し、若手研究者が育たず、今後は科学技術先進国から転落すると多くのベテラン研究者が危惧している。豊富な資金ではるかに恵まれた施設や待遇が提供されれば、研究を継続したいと思う研究者が引き寄せられるのは当然。今回のようなマッチングの形は今後増えるだろう。これは個々の頭脳流出というより、研究機関ごとごっそり「移転」するのに近い。企業でいえば「買収」だ。

 医療の研究が進むこと自体はいいことだが、研究者をとりこむ側の動機はビジネスであり儲け、さらには国家戦略だ。アカデミックな形で研究が進むわけではない。

 科学研究への予算を減らして防衛費だけ青天井に増やすことが「国を守る」ことになるのか、政治家は頭を冷やして考えてほしい。
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 中村哲医師について小金井市の市民講座で話している。その準備で、内村鑑三の講演録『後世への最大遺物』を再読している。中村さんは、明治期の日本を代表するキリスト者内村鑑三のこの本を愛読し大きな影響を受けた。アフガニスタンに助っ人を志願する日本人ワーカー(ボランティア)はみな、必読書としてこの本を読まされた。

岩波文庫

 内村鑑三はクラーク博士で知られた札幌農学校を卒業すると、水産などの実業関係の仕事を経て米国に留学。帰国後、新潟のキリスト教系の学校で教育を志すが、米国人宣教師と衝突して3カ月で東京に引き揚げる。第一高等中学校で教鞭をとるも、教育勅語の奉読式で「奉拝」しなかったとして「国賊」扱いされ、職を失う。まもなく妻が世を去り、「不敬事件」で困窮に陥る。YMCAから夏期学校講師依頼が来たのは、キリスト教系新聞に執筆するなどして苦しい暮らしをしているころだった。

 人生で失敗続きで失意にあった内村は、自分の生きている意味はなにか、自分の天職とは何かを問うていた。

「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この美しい社会、この我々を育ててくれた山、河、これに私が何ものこさずにいってしまうのであるか」(『後世への最大遺物』P17)

 事業家にもなれす、金を貯めることもできず、本を書くことも人に教えることもできない人間は、無用な人間として世を去るのみなのか。いやそうではない。だれにでもできる最大遺物があるはずだ。これは自分への語りかけでもあったのだろう。

「それならば最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世にのこすことのできる、そうしてこれは誰にものこすことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。」(『後世への‥』P58、文字を一部替え読みやすくした)

 中村哲医師はしばしば「次世代への遺産」に言及する。

 「我々がこだわるのは、世界のほんの一隅でよいから、実事業を以て、巨大な虚構に挑戦する良心の健在を示すことである。万の偽りも一つの真実に敗れ去る。それが次世代への本当の遺産となることを信じている。」(1996.10)

 中村さんは「後世」へのまなざしを常に持っていた。

 

 6日のブログに府中郷土の森公園のハスとハス博士、大賀(おおが)一郎氏を紹介したが、彼もまた、この本につながるご縁がある。

 大賀氏は岡山県生まれ。尋常中学校で内村鑑三の著作と出会い、第一高等学校に入学して上京するとさっそく内村鑑三の自宅の聖書研究会に通った。やがて、最も熱心な「角筈十二人組」の一人になる。

 内村に入門した動機は『後世への最大遺物』に強く心を動かされたからだった。大賀は「私は生涯を通じて、この『後世への最大遺物』の教うる所を実行しようと決心した」と語っている。

 大賀氏は東京帝国大学理科大学の植物学科に学び、大学院に進学、ハスの研究を始める。その後、教師として名古屋の高等学校から満鉄(南満州鉄道)へと転身、満鉄社員の身分で米国や英国でもハスの研究を行うが、満州事変が始まると、軍部の行動に怒り、満鉄に辞表をたたきつけて帰国した。学校の講師などで糊口をしのぎながら研究を続けていたが、千葉県の検見川の東大農場を発掘、3粒のハスの実を発見する。さまざまな困難を乗り越えてそのうちの一粒から花を咲かせることに成功した。開花したのは1952年7月18日のことだったという。米シカゴ大学に依頼した研究の結果、ハスの実の発見された周囲の地層は二、三千年前のものと判明した。

 この古代ハス大賀蓮(おおがはす)ともいわれ、国内はもとより各国に根分けされて国際親善の役割を果している。

大賀蓮。府中の大賀蓮は花が終っていた。これは立川市普済寺で今月はじめに撮影したもの。

 大賀氏は1945年から府中市に住み、武蔵国の総社だった大國魂神社の参道のケヤキ並木の保存運動にも熱心に取り組んだ。いまケヤキ並木が絶滅せずに面影をとどめているのはそのおかげだそうだ。

 晩年は妻に先立たれ、脳軟化症で倒れてからは、生活保護を受けて療養しながらも、病床でなおハスの研究に執心をもやしていたという。65年1月の『朝日新聞』に「病重いハス博士」という記事が載り入院中の大賀氏の写真が報じられると。多くの人から支援の手が差し伸べられた。賞というものには疎遠だった大賀氏のもとに、一人の小学生から布のペンダントが送られ、そこには「私からのノーベル賞です」と書かれてあったそうだ。(同年6月15日逝去)

 大賀蓮は「勇ましい高尚なる生涯」への努力によってこの世にあらわれたものだった。そう思って観ると感慨深い。