ウクライナ取材で群を抜くアルジャジーラ

 5月1日で、水俣病の公式確認から66年を迎えた。

 水俣市では犠牲者を追悼する慰霊式が営まれた。2019年は天皇の即位に伴い10月に延期され、一昨年と去年はコロナの影響で中止、5月1日の開催は4年ぶりとなった。

 水俣病の認定患者は熊本・鹿児島両県で計2284人(熊持1791人、鹿児島493人)、うち2017人が亡くなっている。

(被害者団体独自の慰霊祭 NHKニュースより)

 また、鹿児島との県境近くの乙女塚では慰霊式と同じ時刻に被害者団体が独自に慰霊祭を開いた。これは1次訴訟の原告でつくる『水俣病互助会』が40年以上前から毎年続けているもの

(フジTVニュースより)
 自らも認定患者で公式確認のきっかけとなった田中実子さんを介護する水俣病互助会の下田良雄さん(74)は「「(公式確認から)66年経ってもまだ苦しんでいる人がいっぱいいる」「国は断ち切ろうとしているような気がしてそれはおかしいと思う」と語った。

 水俣病をめぐっては今なお1400人余りが熊本、鹿児島両県に患者認定を申請しているほか、およそ1600人が法廷闘争を続けている

 これだけ時間が過ぎてなお、認定の申請や裁判闘争をしなければならないとは。恐ろしい企業と政治の不誠実と鈍感さ。情けなく、また申し訳ない気持ちにもなる。
 今年は水俣を訪れたい。
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 4月30日の「東京新聞」特報面に見開きで師岡カリーマさんの「ウクライナ侵攻に思う」が掲載された。話題を呼んでいる『世界』臨時増刊の巻頭文を短くしたものだという。

東京新聞4月30日朝刊22-23面)

 「誰が加害者で、誰が被害者か、白黒のつけやすさゆえに、世界は自ら考えるという労を要さない安易な勧善懲悪の悦に浸りすぎてはいないか。」
 「爆撃で焼け出されたウクライナの人々が、カメラの前で『ロシア人は人間じゃない』と叫ぶのは、自然なことかもしれない。でもマスメディアがそれをそのまま伝えるのは適切か。イスラエル兵に子どもを射殺されたパレスチナ人が、仮に絶望のどん底で『ユダヤ人は人間じゃない』と言ったら、そのままニュース原稿に書くだろうか?」
 「この戦争を避ける努力は、本当になされたか。」

 戦争を少し引いたところから冷静に見てはどうかとの提言には考えさせられる。

 私がもっとも興味をひかれたのは、エジプト育ちの彼女ならではの視点で報道を論じているところで、とくにアルジャジーラの取材姿勢に注目した。ちょっと長いが引用する。

 

 侵攻開始から三週間、英国BBCワールドニュースや中東のアルジャジーラではウクライナ情勢が報道のほぼすべてを占め、特にアルジャジーラの本丸であるアラビア語放送が、渾身の報道で目を引いた。

 普段のアルジャジーラは数時間おきに30分のニュース、そして毎時間の正時に短いニュースを放送。欧米メディアとは異なる優先順位でトピックを選び、チュニジアイラク、イエメン、スーダンエチオピアといった地域の細かいニュースがトップで伝えられて時間もたっぷり割かれる。ニュース以外の時間も充実。ゲストを交えた時事番組、インタビュー、旅番組、ハイテク情報、スポーツ、文学、ドキュメンタリーなどは、内容もここ数年で飛躍的に向上し、何時間観ても飽きない上質なラインアップが無料で視聴可能だ。ところが戦争勃発から3週間は、私が見た限りニュースのみの放送となり、しかもほぼ9割がウクライナ報道。欧米メディアとは一線を画す独自性を打ち出してきたアルジャジーラにあって、記者とカメラを戦闘地も含めウクライナ各地に配備し、「ヨーロッパの戦争」を取材する力の入れようは、やや意外だった。

 ロシアとウクライナに対するスタンスは基本的に欧米メディアと同じだが、BBCなどの一部記者に見られる、詩的な言葉遣いでやや自己陶酔の気がある勿体もったいぶった戦争報道に辟易へきえきしていた私から見ると、アルジャジーラのほうが客観的だ。多くの欧州人にとって戦争は過去か外国のもので、破壊されたウクライナの街並みの写真に「これがヨーロッパの光景とは」とのコメント付きでシェアしている人も多い。その衝撃が彼らの報道姿勢にも影響しているかもしれない。一方、アルジャジーラのアラブ人記者たちは、歴史に類を見ない凄惨せいさんな世界大戦は2つとも、他でもないヨーロッパから始まったことを明らかに意識している。

 「キーウ(キエフ)近郊の町でロシアの砲撃」とウクライナ政府が発表すれば、その直後にはアルジャジーラ記者がそこから生中継で真偽を検証する。背景にはまだ遺体が散乱し、記者は今その場で目撃したことを、震える声で言葉に変えていく。スタジオからの生放送の途中でも、キーウで警報が鳴ればニュースは中断され、数分間にもわたりその音声が、首都中心地の映像とともにひたすら中継される。現場との一体感という意味では、群を抜いていた。

 富裕国カタールを拠点とし、桁違いの予算をグローバルな視聴者に向けて使うアルジャジーラと、基本的に国内向けの日本のテレビを比べる必要はない。日本では安全を考慮してか、現地の戦況よりも各国政府の発表や周辺諸国に逃れた難民の取材などに比重を置いていた印象だ。それでも十分に戦場の悲惨さは伝わってくるが、戦況を徹底的に自主検証するアルジャジーラでは、情報の量も密度も圧倒的に勝っているのは事実。でもこうして戦争報道にどっぷり浸つかっていると、そのストレスだけで3日に一晩ぐらいしか眠れなかった。遠く離れた日本のメディアが、そこまで張り切って一般視聴者を戦場に引き込む必要はない、という考え方も有効かもしれない。実際、現地に近い北欧では「精神が疲弊して生活に支障が出てきた」と、罪悪感を抱きながらもニュースを見るのをやめてしまった人もいるという。(後略)

 

 たしかにアルジャジーラの取材はすごかった。マリウポリハルキウなどの最前線にもっとも肉薄して取材し、戦況を詳細に報じていた。(このブログでも触れた)

 記事は、それぞれの地域のジャーナリストが独自の視点で取材していることをよく観察して書かれている。

 現場に行かない日本メディアは「それ以前」の話で、報道姿勢を根本的に考えなおすべきだろう。