あるチリ人の母国に帰れない理由

 もう立夏。夏の気配がただようころ。
 5日から初候「蛙始鳴」(かわず、はじめてなく)
 10日から次候「蚯蚓出」(みみず、いずる)
 16日から末候「竹笋生(たけのこ、しょうず)
 生き物がはつらつとしてくる。山菜の季節でもある。

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 みごとな山うどがたくさん

 長野県の田舎に住む友人から、たくさん採れたので、と山ウドが送られてきた。

 生で、そして肉と炒めて、皮はきんぴら、葉はてんぷらにしておいしくいただいた。

 家の前で近所の人とばったり会って挨拶したついでに、山うどをおすそ分けした。
 するとその人、実は、以前手術したがんが転移して・・と身の上話をしだした。かなり厳しいことになっている状況を、それほど親しくない私に語り続ける。「人間、いつかは死ぬんだから」などと医師が言うのはひどいんじゃないか、と医療不信も。

 「うど食べて、元気つけてください」
 そう言って別れたが、誰かに話をしたいという思いが伝わってきた。おすそわけで見えた人の心。
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 ここ1~2週間で「入管法」改正案のメディアへの露出が急に増えてきた。
 政府は衆院法務委員会での採決を強行する構えで、これを阻止しようと、連日国会周辺に反対する人々が集まっている。一昨日の12日も議員会館前の歩道で座り込む人々がいた。

 この日、参議院議員会館で、入管施設に収容されている外国人を支援する団体のSYI(収容者友人有志一同)、「牛久入管収容所問題を考える会」(牛久の会)が共同で緊急記者会見を開いた。

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一番左が牛久の会の田中喜美子さん(面会歴25年)、隣がSYIの織田朝日さん(面会歴17年)

 収容体験のある外国人2人が、被収容者を人間扱いしない酷い入管施設の実態を語ったほか、長崎の大村入管で支援活動をしている柚之原牧師が会見に声明文を寄せ、いまの改正案を国会通過させないよう訴えた。

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チリ国籍のクラウディア・ペニャさん(60)

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ネパール国籍のバビタ・グルウンさん(35)

 会見の様子は以下の新聞、雑誌の記事に。東京新聞のエース、望月衣塑子記者も取材していた。
 朝日新聞

www.asahi.com


 毎日新聞

mainichi.jp


 東京新聞

www.tokyo-np.co.jp

 週刊SPA!

news.yahoo.co.jp

 記者によって書き方が違うものだなあ。

 入管関連の問題が弱かった朝日新聞も、今日の朝刊社会面でようやくスリランカ人女性ウィシュマさんの不審死について大きく載せている。

 「不法滞在」という言葉を聞くと、「あ、悪いやつ!」と思う人がけっこう多いと思うが、実にさまざまなケースがあり、一人ひとりに人生のドラマがある。12日の会見に出たチリ国籍のクラウディオ・ペニャさん(60歳)の半生も、ほんとに、こんな人生があるのか!と驚かされるものだった。

 チリは1990年の民政化以降、民主化・自由化が進み、今は「安定的な民主国家」“a stable democracy”(フリーダムハウス)と評価されている。そんな国からなぜ逃れなければならないのか?

 1973年9月、チリの社会主義政権が軍事クーデターで転覆され、アジェンデ大統領以下、多くの左派の活動家、支持者が虐殺された。当時大学にいた私は、この事件に衝撃を受けたものだ。今回のミャンマーのクーデターのように。

 1990年、民衆の民主化の要求を受け、民選のエイルウィンが大統領になり軍事独裁は終わった。しかし、軍部は以降もかなりの影響力を保ち、軍政期の虐殺や人権侵害の真相究明に抵抗した。エイルウィン自身、73年にはクーデターを支持した人物で軍部には融和的だった。

 ペニャさんの父親は、1973年当時、軍などの政府関係の建物をメンテナンスする技師だった。クーデター当日、軍人が自宅アパートから父親を連れだした。仕事で官庁やアパートなどさまざまな建物に出入りしていた彼から、「左派」がどこにいるかを聞き出そうとしたのだった。軍人は、危険人物を別の場所に移すためだと説明した。
 命令に従って、父親はリストを作成した。さらに軍人は、拘束した市民を集めたスタジアム彼を連行。覆面をつけさせたうえで、リストの人物を指さしさせた。その協力によって軍は300人以上を特定。彼らは拷問され、殺され、死体を隠された。そのことは父親には知らされなかった。その後、彼は軍に表彰された。

 民主化のあと、真相究明のための「真実和解国民委員会」が発足すると、ペニャさんの父親は自発的に、自分が摘発に協力した300人以上の行方不明者の件を委員会に告白した。すると彼は軍から解任され、退職金などの恩恵も与えられなかった。
 身の危険を感じて、一家はアパートから引っ越しした。一緒に暮らすのは危険だと判断し、別々に生き、連絡も取らないようにした。ペニャさんはここで家族との生活を永遠に失った。父親は孤独と恐怖のなか、認知症が進んで亡くなったという。
 
 1992年、32歳になる年、ペニャさんはサンティアゴ市の国際料理コンテストで金メダルをとった。これで彼の勤め先が「追跡者」に発覚した。
 ある夜、ペニャさんが仕事場のレストランを出ると、多数の男たちに囲まれた。車で人里離れたところに連行され、死んでもおかしくないほどの暴行を受けた。彼に脅しと罵りの言葉を浴びせながら殴り、鎖や棒で痛めつけた。衣服をはがし、倒れると石を投げつけながら殴る蹴るを続け、最後には小便をかけた。

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リンチを受けるペニャさん(本人作)HPより

 男たちが去ったあと、全裸で血だらけになったペニャさんは、時間をかけながら、どうにか近くの民家にたどり着いた。彼は警察や救急車を呼ばないよう住民に頼み、駆け付けた両親が彼を病院に連れて行ったが、迫害者に見つかるのを恐れて、警察には強盗に襲われたと報告し、医師の診断書にはヘルニアの手術をしたと書いてもらった。

 この暴行が原因で、ペニャさんは今もさまざまな後遺症に悩まされている。左耳の聴力を失い、左目の視力が弱くなった。いつも耳鳴りがするようになり、そのせいでいつもストレスを感じている。さらに男たちは、コックである彼が料理できなくしてやると、手を痛めつけ、そのため指がゆがみ、鋭く痛む時があるという。
(つづく)