横浜のニュースパークで「80歳の列島あるき旅・石川文洋写真展 フクシマ、沖縄...3500キロ」が開催中だ。
21日、石川文洋さんのトークイベントがあったので聞きに行った。80歳で、心筋の4割が壊死している体で日本縦断に挑戦した石川さんだが、じつに楽しそうにカメラ旅を語るので、私もやりたくなった。
石川さんが持って行ったカメラは中古のニコンのデジカメで2万8千円だったそうだ。
コロナが収まったら、縦断とか横断とか構えずに、気ままに写真を撮りながら日本を歩きたい。3ヵ月くらいならすぐにもできそうだ。
会場に、ベトナム戦争の取材で知られた小川卓さんが見えて、石川さんと久しぶりの再会を喜び合っていた。
日本報道史を感じる2ショットだ。
ベトナム戦争を取材した日本人カメラマンはどのくらいいるのか。
石川さんの本にも多くの名前が出てくるが、『Photo Japon』(1985年3月)は「特集:41人のベトナム戦争」で以下を載せている。
石川文洋、小川卓、鍵和田良輔、桑原史成、市来逸彦、藤木高嶺、川島良夫、三村吉郎、鈴木茂雄、浅田恒穂、吉江雅祥、加藤敬、杉崎弘之、梅津禎三、山田昇、竹内誠一良、今城力夫、中西浩、間山公麿、三石英昭、久保田博二、池辺重利、米津孝、佐藤モトシ、吉田ルイ子、松野尾章、廣瀬昌三、今井今朝春、望月照正、楠山忠之、池田利雄、小久保正一、中村悟郎
日本人が紛争地に行かなくなった現在、当時のスピリットを学びたい。
石川さんの写真展は20日まで。
・・・・・・・・・・・・
さて、「温海(あつみ)事件」のつづき。
この事件は、警視庁外事・警備課長や初代内閣安全保障室長を歴任した佐々淳行氏がちょうど警察庁外事課長だった時期に起きており、佐々氏は機構上は事件担当のトップの一人だった。
佐々氏は「東大安田講堂事件」や「連合赤軍あさま山荘事件」で警備幕僚長として危機管理に携わるなど華々しい経歴もあり、テレビにもよく出ていてご存じの方も多いだろう。
彼自身、「温海事件」では忘れられない屈辱を味わったとのことで、複数の著作に登場する。ここでは少し長いが、『私を通りすぎたスパイたち』(文藝春秋2016年)における記述を紹介したい。
その前に、ちょっと脇道にそれると、佐々家のファミリーヒストリーはとてもおもしろい。父の佐々弘雄氏は、美濃部達吉、吉野作造の薫陶を受けた「左派」の法学者で、1928年(昭和3年)「三・一五事件」のあと、「九大事件」で共産主義者の疑いをかけられ、左派の論客、向坂逸郎らとともに大学を追放された。その後、弘雄氏は朝日新聞社に入り、終戦時は主筆をつとめ、1945年8月15日の社説「一億相哭の秋」を執筆している。「九大事件」後は中野正剛、頭山満の他、血盟団事件の四元義隆、「五・一五事件」の三上卓ら右翼人脈に近づき、東条英機暗殺計画にも加わったという。「ゾルゲ事件」が発覚したさいは、朝日新聞で親しくしていた尾崎秀実関連の書類や写真をすべて、淳行氏が風呂場で燃やしたという。この本にも顛末が書いてあり、「後にも先にも、あんなに必死になって証拠隠滅をした経験はない」と記されている。(P23)
また淳行氏の姉には、婦人運動の活動家で参議院議員をつとめた紀平悌子氏がいる。
では、『私を通りすぎたスパイたち』から「温海事件」の関連個所を引用する。(P134~139)
1973年(昭和48年)8月5日、午前0時頃のことである。
山形県西田川郡温海町(現・鶴岡市)の国道7号線を警ら中のパトカーが、トボトボと歩いている不審な三人連れの男たちをみつけて、職務質問をかけた。
一人が外国なまりの日本語で「青森から歩いてきた。鼠ヶ関(ねずがせき)の海水浴場に行くところだ」と答える。こんな真夜中に海水浴?おかしい。潜入スパイではないかと感じた警察官が外国人登録証の提示を求めると、青森においてきたので、持っていないという。そこで署まで同行を求めたところ、三人の男たちはやにわに質問中の警察官の腹部に空手の一撃、もう一人の警察官に体当たりをくらわせ、なにか朝鮮語で大声で叫びながら三人それぞれバラバラの方向に向かって逃げ出した。
一人は追跡した警察官によって、格闘の末逮捕され、もう一人は、近くの海水浴場のキャンプ村に潜んで海水浴客をよそおっていたところを逮捕された。海水パンツ一つで、浜辺にねそべっていたというが、午前4時頃のことで、いくら真夏でも海水浴には早すぎる時間だった。もう一人は、国内のスパイ組織にかくまわれたのか行方がわからない。
この二人は、取り調べに遠洋運搬船「東海1号」の乗組員だと名乗り、暴風雨のため遭難してゴムボートで日本にたどり着いたのだと主張して、北朝鮮工作員であることを否認した。
だが、付近の岩かげでゴムボートが発見され、リュックサックからはラジオ、医薬品、乱数表、暗号表などさまざまなスパイ用具が見つかった。両名の供述はくいちがい、船の大きさも訊くたびにでたらめ、暴風雨の事実もない。暗号表を解読すると「自衛隊」「米軍」「基地」「工作員」など、スパイ活動をにおわす用語が多かった。
彼らがスパイ活動の意図をもって日本潜入をはかった北朝鮮工作員であることは明らかで、両名の出入国管理令及び外国人登録法違反にかかわる公判は、順調に進んだ。
警察庁外事課長だった私は、この「温海事件」には、さほど関心を払っていなかった。
証拠は十分。日本海沿岸でしばしば起こる潜入事件と大同小異の、ごくありふれた北朝鮮スパイ事件の一つにすぎない。いずれの事件も判決は、執行猶予つきの懲役一年。今回もどうせ懲役一年にきまっている。
「温海事件」から三日後の8月8日、東京・飯田橋のホテル・グランドパレスで発生した「金大中事件」で警察庁、警視庁は上を下への大騒ぎとなっていた。私は連日連夜、金大中事件の捜査や国会答弁、夜討ち朝駆けのマスコミ取材への対応などに忙殺されて、「温海事件」のことなど、ほとんど忘れてしまっていた。
同年11月2日、山形地方裁判所で「温海事件」の2名にそれぞれ懲役1年、執行猶予3年の判決が言い渡され、身柄は直ちに法務省仙台入国管理事務所に移された。
とここまでは想定通り、いつものことだったが、異変が起きた。
なんとスパイどもは、証拠物であるゴムボート、無線機、乱数表などは自分の所有物ではない、金日成閣下の持ち物であると主張したのである。通常は捕まえたスパイに、自分の工作用具として認めさせたうえで所有権放棄させる。あるいは「私は知りません」と否認した場合は無主物という扱いにしておいて、裁判の際の証拠品として使う。証拠に使ったあと、無線機や乱数表などは、警察学校や公安幹部研修の教材として活用、スパイ取り締まりの教育に使っていた。
ところが、このときは妙に仕事熱心な弁護士がついて「証拠品の押収手続きが違法で無効だ。返還しろ」と言い出したのである。山形地検の担当検事もこの主張を認めていた。
そんなバカな話はあるか、と六法全書をひっつかんで該当条文を探す。
あった!
「刑事事件における第三者所有物の没収手続きに関する応急措置法」(昭38.7.23法律第138号)
同法第2条によると、被告人以外の所有に属する者の没収手続きについて、検察官は公訴を提起したとき、その第三者の所在がわからなかったり、当人に通告できないときは、官報、新聞に掲載し、かつ検察庁の掲示場に14日間提示して、没収するぞということを公告しなければいけない、と規定してある。
「これらは金日成閣下のものです」と主張したスパイは今回が初めてだったので、検察庁も山形県警外事課も、そして私たちも意識の死角をつかれたのだ。
「金日成閣下の無線機だ」といわれたら、すぐ官報や新聞、掲示板に「金日成閣下、このゴムボートや無線機や乱数表は、貴下のものですか?」と14日間公告してたずねなければいけなかったのだ。
絶句して呆然としている私たちの目の前で、裁判所は「第三者所有物」、つまり「金日成閣下の持ちもの」であるゴムボートなど証拠品のスパイ道具一式を、被告らに返すように命じた。そして二人は、新潟港から定期船「万景峰号」に乗って、ゴムボート、無線機、乱数表など抱え、意気揚々と北朝鮮に帰国していった。
当時の山本鎮彦警察庁警備局長から「戦後日本の外事警察の最大の敗北だ」とお叱りを受けた。これがスパイが罪にならない日本の現実である。
こんな生ぬるい対応をしているから、日本にはいくらでも工作員を潜入させられると北朝鮮当局は思ったに違いない。このあと、いわゆる日本人拉致が本格的に始まる。また、昨今の北朝鮮の核開発にしても、その技術的支援などで、日本に対する北の産業スパイなどもさぞかし暗躍したことだろう。初期の段階で、北のスパイを下手に泳がすのではなく、徹底的に取り締まっておけば、拉致の悲劇も起こらず、北の核開発のスピードも遅らせることになったのではないか。無念でならない。
・・・・・
多くの人はこれを読んで驚くのではないか。
せっかく海岸で北朝鮮工作員を捕まえたのに、こんなにいい加減な対応でいいのか、と。なにより、こうした事件や顛末が私たちにほとんど知らされていないことが異様に思われる。
もし、仮にである、これが中国かロシアの工作員で、今、海岸で大撮り物(温海事件では捜索に海保のヘリまで出ている)の末、取り押さえられたら、大ニュースとして報じられ、大きな政治・外交問題になるだろう。
(中国もロシアもそんなことはしないはずだが、あくまで「仮に」ということで)
どうしてこういうことになってしまうのか。
(つづく)