鬼海弘雄さんが語る「写真の可能性」2

    きのう浅草に用事があったので、浅草寺に寄った。
 外国人ツーリストがいないので閑散としていた。

 鬼海弘雄さんを偲んで宝蔵門へ。仁王像があるので仁王門ともいう。鬼海さんは、境内の朱の壁を背景にポートレイトを撮ったが、その撮影現場の一つがこの壁だ。

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 ちなみに、大わらじは山形県村山市の奉賛会が10年に一度、延べ人数800人、1ヵ月をかけて制作され、奉納されるのだという。「こんな大きなわらじを履くものがこのお寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくとされる。
 いいカメラを持って境内を撮影している若い女性がいたので、呼び止めてこの壁をバックに撮ってもらった。女性は「え、ほんとに背景はこの壁だけでいいんですか。本堂とか入れなくいいんですか」といぶかりながらシャッターを押した。

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 写真をなめてる!と冥途の鬼海さんに叱られそうだが・・

 そのあと浅草で、鬼海さんのエッセイ集『誰をも少し好きになる日』を担当した文芸春秋社の森正明さんとお会いするご縁があった。奇遇である。他にもおもしろい出会いがあり、そのまま浅草で遅くまで楽しく飲んだ。
 きょうはぶらぶら街を歩いて、裏通りに気になる小さい飲み屋をいくつも見かけた。また来よう、浅草。
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 前回、鬼海さんが「写真の概念が変わらないと、表現としての写真はなくなるだろう」とかなり厳しい指摘をした。その続き。

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 カタログとしての写真、女の裸とか、商品のカタログとか、コマーシャルは生き残るわけですけど、そうじゃなくて、表現として・・・表現とはいつも根本的には、もう少し人を好きになりたいっていうのが基本なんだと思います。
 もう少し、こんな、角を突き合わせて、お互いにフラストレーションたまるようなものじゃなくて、ちょっと楽にしてみんな生きたいんじゃないか、というのが、もともと表現の質にあるんじゃないかと思います。

 それは哲学にしてもそうですね。プラトンにしたって、いかに分からないってことが大切かって。哲学の基本なんですよね。それと同じように、人を好きになりたいという構造がないと、単なる小説の物語を追うような、ストーリーテラーみたいな形しかなくなる。

 でも、人間は不思議なことにどこの民族も神話があり、インディアンの部族でもアイヌでも、先住民と言われる人たちに、ものすごい透明感のある神話があるんですよね。あれ、不思議だなと思ってます。写真はこれから新しい神話になれるかなって。ものすごい分かれ道に来ているのかもしれません

 写真の表現は、他の表現と違って、誰でも撮れるという、ものすごくアドバンテージがあるわけですよね。絵画とか、小説とか、絵とかって、最初から天賦の才がないと、ほとんど表現のラインにも立てないわけですけど、写真はカメラを使うわけですから、そのときから誰でも撮れるっていう、すごい有利な大切なことがあるんだと思います。
 「誰でも」っていうのは、「わたし」性がないときには、民主主義の一票みたいな感じで「溶解」しますね。そうならないかもしんないし、なるかもしんないし。
 写真は、頭じゃなくて、レンズが見るということで、偶然性とかを、ほんとに有利にしないと、人の心の中に眠っている永遠性を揺らすことがないので、カメラっていうのはおもしろい「道具」なんですけどね。と、自分で何となくごまかして写真を続けてます。

 写真ほど、その時代背景と寄り添うような表現方法はないのかもしんないですね。それだけ、世俗的なものですごい流れるかが、ちょっと時代的に雰囲気が変わると写真が古くなる。その速度がものすごく速くなってきているという感じはします。
 でも基本的にどの写真を見ても、自分が思っているよりも人間はもっと生きるに値する動物だろうと信じている人たちの写真を撮っているという、感じがしますね。

 時代的からいえば、アーヴィング・ペンとか、アメリカのファッション写真家ですけど、(この人の弟はアーサー・ペンという映画監督ですが)この当時は、ファッションにとって文化とか人間にとってなにか大切なものとか知性というものを写せた時代なんですよね。 
 だから、コマーシャル写真でも、一般に売られてる雑誌の表紙にしても、誰が撮ったか、この写真家だれかって、完全に分かるような写真を撮ってますね。
 ところが今はそういうことはなくって、ほとんど写真家は匿名性になってて、誰が撮ったのか分からない。でも、作家として成立するんだったら、カメラで撮るんだけど、その中に「わたし」っていう彩(いろど)りを吸着させないと表現とはならないわけです。
 何度も見るのに値するのが写真だと思いたい。いい小説は何度でも繰り返し読める。表現の優れたものは、外国のものでも何度でも、ということがある。「何度でも」というのは、作品の中にあるのではなく、あなたたちの想像力が別のかたちで発酵するからなんですよね。
 それがもしかしたら、写真が誰でも撮れるということの本質的な意味で、ただ押せば絵に写るっていうだけじゃなくて、と思ってます。

 

Q:写真集を見るのと違って、写真展などでプリントを直接に見る楽しみとは?(との質問に)


 私はプリント自分でやってて、暗室でできたばかりのモノクロプリントはうつくしい。やった人でないとわからないと思いますが。

 オリジナルプリントだろうが、ビンテージプリントだろうが、希少価値があるとかいうのではなくて、表現としては、その写真が持っている人間に対するメッセージ性が重要なわけで、やっぱりいい写真と言うのは、人間に対して今まで知らなかったものをメッセージするので、陶板に焼こうが鉄板に焼こうが、いい写真でなければ、表現としてはどうだろうと思います。
 プリント、手仕事というのは、そういうムダなことっていうのは非常に大切なのかもしれない。ムダなことしないと、体で覚えることはできないんですね。だから、デジタルカメラを今のところ私は全然使わないのは、自分の考えを発酵させたり、濾(こ)したりすることが、あまりにも容易なので、耐えられないという感じですね。みなさん、デジタルで作品にするのを急ぎすぎている感じですね。

 私が写真家になろうと思った時、生涯に5冊の本を出して死にたいと思った。自分の自費出版じゃなくて、他人がカネを出して作ってくれる本を5冊、と思ってやってきまして、いま20冊を超えましたけどね。
 私の場合は才能がないせいだけど、高く北斗七星のような形で動かないと船は進めないと、一生でライフワークしか撮っておりません
 浅草からはじまって、街の写真撮って、あとインドとトルコ。インドとトルコは、人間にとって「懐かしさ」って何だろうというのをよく感じるんですよね。懐かしさってのは、単なる回顧じゃなくて、もしかして、人間が未来に対する懐かしさを喪失したら文化は滅びるんじゃないか、と思っております。
 懐かしさっていうのは、見てくれる人が感じてもらわないとどうしようもないもんですから、写真家が懐かしさを上から目線でたれ流すことはできないですね。見てくれる人の、なんといっても、想像力にかかってるんですよね。
 そのときの想像力は、「わたし」を考えるとき「あなた」や「世界」を考えないと「わたし」は明らかになんないですね。AはAであると言ったって、それは成り立たない。AがあってBがあったりCがあったりするから、Aが明らかになってくるわけですね。
 たぶん、「懐かしさ」には、そういう構造があるんじゃないかな。人間もういちど、「懐かしい未来」ということを考えないと、つまらない生き物で終わるかなぁー。それにしちゃ、もったいないと思うんですよね。

 最近、寝るときに、宇宙のものをよくYoutubeで見るんですよ。それは何光年とか145億光年とか膨大な、人間の知識はあそこまで行ってるわけです。それは、そういう科学的なものは先人の積みこんだものをそのまま使って階段を登っていくからそうですけど、人文科学ではそうはいかないですね。
 「わたし」というものから始まって「わたし」で終わって、それでちゃんとしたものを継承できるかどうかが問題なんですけど、それにしちゃあ、天文学で145億光年ですよ、光の(速さ)ですよ。それの外にも宇宙があるのを人間は分かり始めているのに、人間同士の人文科学のこの体たらくは何だろう。製造道具を一生懸命使ってないと豊かになれない。アタマのいい人がそういうこと考えてる。

 写真てのは、基本的に眼の驚きってことなんですよ。だから簡単なカメラ、たとえば写ルンですというカメラがあったわけですけど、スマホでもちゃんと撮れないと、いくらバイテン(8×10エイトバイテン=大判カメラ用のフィルム)で撮ろうが、フィルムで撮ろうが、写らないんですよ。
 「写る」ってことは「話しかける」ってことなんだよね。話しかけて世間とかいろんな他人に、いろんな多様性があって、バラエティーがあって、それが普遍に通じる。それぞれのもってる「わたくし」性がないとそれは共鳴しないし、一方的に同じようになると、北朝鮮マスゲームみたいになる。

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 トークショーで鬼海節に酔いながら聞いていると、何か深い真理に接したかのように思うが、こうやって文字起ししてみると、難解である。
 分からないところを反芻しながら考えるのも、また大事な勉強と思っている。
 もう少しお付き合いください。
(つづく)