鬼海弘雄さんが語る「写真の可能性」3

 タイの民主化運動は山場を迎えつつある。
 7年もタイに暮らしたので、他人ごとではない。

 追いこまれたプラユット首相は国会で、憲法改正論議をはじめてもいいと、一見「妥協」したかのような姿勢を見せたが、若者たちは「まやかし」だとして矛を収める気配がない。
 タイではこれまでも大規模な民主化運動が体制危機につながりそうな時が何度かあったが、本格的な王室改革がテーマに上がったのは今回がはじめてだ。それだけにこの運動は単なる「倒閣運動」にとどまらず、「革命」の様相さえ帯びてきた。
 先代のプミポン国王なら、両者の間に割って入って喧嘩両成敗で膠着状態を打開しただろうが、現国王は、王室支持派のデモをわざわざ激励に行って火に油を注いでいる。

 民主派のデモをテレビで見て、一瞬香港か?と見まちがえた。
 ヘルメットにマスク、黒シャツと、警察に個人が特定されないよう、みな同じスタイルにそろえ、3本指を高く掲げる(香港は5本指だが)さまはそっくりだ。

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(以下、写真は「国際報道」より)

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映像を見ると、香港と同様、中学・高校生もたくさん参加している

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左は雨傘運動の香港。それにならって放水に傘で対抗するタイのデモ隊

 「今回のデモはいくつかのグループの集まりで、参加者もSNSなどの呼びかけで集まってきており、明確なリーダーは不在」(29日の朝日新聞記事より)という点も同じだ。
 実は、タイの若者たちは香港の成功した運動から学んでおり、香港の若者たちもタイの動きに連帯している。「ミルクティーアライアンス(同盟」である。

 (ミルクティー同盟とは、「バニラの香り漂うオレンジ色の甘いタイティー、台湾はタピオカ入り、香港は練乳で甘みをつけた濃い紅茶。名物のミルクティーを絆にした心の同盟」。以下参照)

takase.hatenablog.jp


 香港では中国共産党による弾圧が進んでいるが、あの運動は世界に大きな影響を与え続けている。
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 清里フォトアートミュージアムの「ヤングポートフィリオ展」(於:東京都写真美術館)での鬼海弘雄さんのトークショーには、若い写真家志望と思われる人が多く参加していた。かれらを意識してか、鬼海さんは何度も大きく声を張り上げ、表現としての写真の意味を何とか伝えようとしているように思えた。おもしろいが、とても厳しい道だよと諭しながら。
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自身の写真を前に語る鬼海さん

 なかなか写んないでしょう、写真は。
 私の場合は、「写真は写らない!」と思った時から写真家になったんですね。写らないから続けることができる。そんなにバンバン撮れるなら、デズニーランドで遊んでなさいっ!(笑)て感じですね。

 マグロ船に乗っておりまして、それがたまたま写真雑誌にのっけてもらったという僥倖にあって、写真をやってみようかなあ、と思って、そのためには暗室技術を覚えなくちゃならない。プロのラボに入って、現像を覚えました。
 毎日、酢酸のにおいと締めっぽいところにいるから、外気にあたりたいと、休みの時、浅草に行くようになりました。
 浅草は、非常に私の体に入りやすい感じだったですね。やっぱり六本木とかぜんぜんダメで。いや、六本木で酒飲みたいと写真家になったんですけど(笑)

(Q:六本木と浅草、どんなふうに違うか?との質問に)

 (六本木は)悲しみが表にでないですよ、全然違う。生きるって、悲しみが大切と言ってもいいけど。
 その当時、マグロ船とか、荷物担ぎとか、職工とか旋盤工とかいろんなことやっててたんです。そのときは単なる生きるための糊(のり)を稼ぐためと思ったんですけど、浅草に行って、なんかよく知ってる人、トラックの仲間だった人とか、マグロ船に乗ってたときの人とか、非常に似てる臭いの人がいて、ああ、人を考えるならここだなと思ったんですね。なにほどか自分に似てるもの。
 第三者として撮ったら、写真は息しません。写真が息するのは、語り始めるのは、他人ごとではないとか思ったりするとき、写真はそれぞれ話し始めるわけです。

 写真が何回も見れるってことは、毎回めくったとき、違った言葉で話してくるから見れるんですね。それは、人間とは何かという、わかんない茫漠とした霧の中に入ってて、、。感じたり、考えることの基本です。

 ドラマツルギーとしての映画ってのは非常に訴える力があるけど、どういう解釈かっていうと同じ方向に行くんですね、あなたの解釈は間違ってる、映画の解釈はそうじゃない、と。
 ところが写真にはそれがないから、それぞれの人が多様性というか、それぞれが写真と話すことができる。
 哲学の基本はプラトンの時代からいつだって同じです。わからないということに対して向き合う。わかないってことの意味に向き合うあうということなんですね。それが考えるってことなんです。
 分からないってことを、他人とか世間とかに散らして考えるということなんだと思います。

(Q:40年前浅草寺で撮り始めたときと今の違いは?との質問に)

 風俗とか変わりますけど、人間はほとんど変わらないということが私にありまして。
変わりますよ、みなさんユニクロとか同じもの着始めて、中国人、韓国人、台湾人などが浅草に非常に多くって、少なくとも10年前、5年前までは、ああ中国人だ、韓国人だ、台湾人だって識別できたんですね。
 それは文化の違いがあるからですよ。ところが、消費経済が無にしたって感じですね、消費経済が人間の個性を奪ってしまった。
 そういうときの仕合わせ感ってものすごく狭くなって、すぐ反応するようになったんじゃないかなーとか思ってます。

(被写体をどう見つけるか)

 見つけてもすぐ行かないですよ。仮装行列のようなものでなくて、その人の服装とか雰囲気とか見て、完全にその人の皮膚とか、息の仕方とか見ないと。
 だからしばらくはその人をじーっと見てるんですよ。
 シャッター押すときは、相撲の立ち合いと同じで、四股を踏んでないとシャター押せないですね。写真家になれない。
 おもしろそうな人だな、こわい、で終わるんですね。
 撮る気になれば、かなり怖い人でもお願いして、撮れるということです。その人の珍しさを撮るんじゃなくて、その人を撮れば、人間てのは、もう少しふだん私たちがおもっている幅よりも広がるだろうと、と思っているからです。
 だから、体調子悪い時など、テンションが低いと、人にカメラを向けることはできないみたいです。

(Qシャッター切らない日もあるんですか?との質問に)

 あります。あります。ここんとこ5、6回全部空振りでしたね。
 だけど私、絵日記みたいなエッセイを書くから、人をみるのが楽しい。という感じで、見ていますね。

(Q上海、北京での反応は?との質問に)

 真剣に見てくれるんですよね。それはうれしいです。インターネットメディアが多いから20社くらい来て、いろいろ取材を受けたんですけど、ずばり本質的なことを訊くんですよね。若い人が。
 「なんで同じことをずっと続けることができるんですか、カネにもならないのに」(笑)、そんなことを言うんですよ。
 人間の仕事って短期のものじゃなくて、自分の森をつくるように、奥深くなっていかないと浅くなるからだと思いますね。
 表現の一番基本は、時代をまたいで残るものでないと、表現にならないですね。
宣伝の写真とか、コマーシャルの写真とか、生き残れるはずがないんです。
 人間の住んでる土壌まで根っこが届いてないものは、表現としては残れない。だから貧乏でも、なんか自分で騙されてやってるってことですね。それはそれで、ちゃんとすると、おもしろいですね。おもしろいものは、おのずと難しいほうに自分の体を押すんですよね。これは不思議ですよね。

 私は写真家でこの人ライバルだって思ったことないですから。小説家に、「かなわないな」と思う人は何人かいますが。それと同じような形で一つのメッセージを残していきたい。という気があります。

(この展示会では、鬼海さんとケルテスの写真の他は、1886年からはじまって撮影順にプロの写真を、また2016年までのYP(ヤングポートフォリオ)の作品を展示している。この展示についての感想を求められて)

 海外3分の1、国内3分の1、セミプロもいるんでしょうけど応募してきた人が3分の1、それで違和感なく並んでいるのが不思議なんですよ。
 コンテストなんかの審査に呼ばれることあるんですが、どこ違うんだろうと。
 コンテストは金賞とか銀賞とか入選とか狙ってるから、頭の中に点数票というか軸がはっきり決まってて、この写真だったら80点はとれるという写真です。
 ところが、この人たちはクリエーターになりたいために、自分を表現したいという強烈なのがあるから。それぞれ個性のある写真を撮ってきたんですよね。
 こんな面白い展示の仕方、プロとアマならべて、というのは、、、私はここまでいいとは思ってなかったんですよ(笑)。

清里ではYPの作品をabc順に並べて展示している。ジャンルも、国籍、性別、年齢、テーマなにもかも違う。コンテストではなく「購入するかしないか」の一点だけ。順位もついてないので、ずっと作家の名前の順でならべてきた)

 人を真似しないで自分の地声で話すというのは表現の基本なんですよね。
 写真家ってのは、自分の写真を見られる人だけが写真家になれるんですよね。自分の写真を他人の写真のように見られるかどうかが大きな関門みたいなもので。
 アマチュアの場合はどこかで見た写真をなぞっている、だから世界観まではいかないですね。
 YPは長く続けると、ちゃんとした写真家が何人かはかならず残ってくる。運動ですね。真実とは何だろうという形のムーブメントにならないと、単なるイベントで終わっちゃうわけですよ。
 写真を撮ることで、新しい人間に対するメッセージを考えることができるし、伝えることができなければ、スマホで撮ってればいいってことなんですよね。

(主催者が、「無名の写真家の作品を買うというYPは、23年継続してきた。50年つづけば100年いける・・」と言ったのに対して)

 写真そこまでもつか?(笑)
 写真は瞬間を止めて、世界の腸(はらわた)をそれぞれの人がつかむってことが写真の意味なんですよ。それはフィルムで撮ろうがデジタルだろうが、関係ない。静止画で世界をもういちど考える。だから最終的に陶板に焼こうが、処理は何にしようが、それが新鮮なメッセージとならなければ、写真はダメなんですけど。
 でもそこまでデジタルは足腰が強くないかもしれないし、写真芸術はなくなるかもしれない。ものすごい才能があって、中興の祖みたいな人が、写真とはこういうものだよ、と出てくると、写真は生き残れる、と思うけど、、、。

 でも写真が生き残らなくてもいいんですよ、別の表現方法があるわけですから。写真が無ければ近代化が生れてこなかったわけですね。写真がなくなったらすぐれた画家たちはどんな絵を描いてただろう。それはベラスケスとかああいう、レンブラントとかは真似してるはずはないんですよね。
 (写真がなかったら)どういう絵が発展したのかな、すごい興味がありますね。現代絵画とか、あんなものは出てくるはずがないですよね。
 だけど、絵画って伝統があって、パウル・クレーとかマチスとか、あんなとんでもない人が出てくるんですね。化け物みたいな。
 ところが、デジタル写真でそういう人が出てくるかっていったら、ぜったい出てこない。と思います。やっぱり手で訓練するとか体で訓練するとか、自然をどうやって見てるかがなければ。
 パールクレイなんか、あんな抽象的で、なんでこんなに世界が写ってるんだろうと思うし。写真の場合、デジタルでそのままいけるかといったら、いけないかもしれないし、いけるかもしれない。 
 足の早い魚のようで、腐るのもはやい。
 でも、静止画像としてもう一回、おれたち生きてる世界ってのはおれたちが思ってるよりももっと豊かなものなんだよって形で考えてくれば、写真は生き残るかもしれないですね。
 写真は頭で、言語で考えてないものは写らないんですね。で、頭で考えすぎて作ったものは腐りやすい。驚きってことがあって写真になるわけですけど、写真家が写真家となるのは、偶然性を、「わたし」って形で必然性にやれるかどうかなんですよね。
 それが人類っていうか普遍にまで広がるかどうかが、表現者として試されるところで、そういうことがきついんですけど、きつくなければおもしろくない。で、どうにかこうにか続けてる感じですね。
 めったに写真は撮れないです。めったに撮れないから続けることができる。ばんばんデジタルとかスマホで撮ると、撮れすぎてつづかないですね。
 ずっと見るってことは、どっかに北斗七星みたいなものがあって、それを起点にジャイロスコープで見ないと、世界の海が沼のようにバラバラになるという感じだと思います。

 他の表現、たとえば小説や短歌、詩と比べて、「たかが写真ごとき」とは言わせない!という形でやるんだったら、新鮮に世の中を見れるということがあるかもしれないです。
 ずっとこれ(展示)見てると、情報としての写真とか、つくった写真というのは、時代に残んないだろうと思うんすですね。
 よく観てください。かなりの完成度の写真だが、時代に耐えられないだろうなというのがあるはずですから、その峻別が写真を見るということの、自分の裸の目で見るということの大切なことなんだと思います。

 そして何回も見られる。なんで見飽きないんだろう。
 それは人類とか人間の悲しみとか喜びとか、ほんとに「ふにゃふにゃしたもの」に大してまともに向かっていく写真だけが見飽きないものになるという感じですね。どうせ貧乏するわけですから(笑)。そう思わないとやってられないんですよ。

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 私が聞いた鬼海さんのトークで、ここまで熱を入れて語ったのはなかった。
 若い人たちに向けて、どう語れば分かってくれるかと、言葉に表現するのをもどかしく思いながら語っていたように思う。
 あらためて書き起こしを読むと、ああも言い、こうも言いし、同じ内容を繰り返しながら「もっと自分の頭で考えろ!」と叱咤しているようにも感じられる。

 写真をふくめ、表現に関わろうとする若い人の考える材料になればうれしい。