横田滋さんの逝去によせて10-1年間の裏交渉で成功した小泉訪朝

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 16日午後、北朝鮮は、金正恩実妹、金与正(党第1副部長)の予告通り、開城(ケソン)の南北共同連絡事務所を爆破した北朝鮮は、韓国の脱北者団体による体制批判のビラ散布に強く反発し、対抗措置を取ると警告していた。

 この建物は、2018年4月の『板門店宣言』で、「南と北は、当局間協議を緊密にし、民間交流と協力を円満に保障するために、双方の当局者が常駐する南北共同連絡事務所を開城地域に設置」したもので、文在寅大統領による「南北和平プロセスの代表的功績」だった。
 
 文大統領が、脱北者団体を刑事告訴するというほどの「おもねり」を北朝鮮に見せても、こうである。むしろ私は、韓国の対北融和策ゆえの行動と理解している。

 あらためて、北朝鮮って分からない国だなあ、と思わせる事件だが、メディアの解説も混迷している。「コロナ感染の影響」などという理由付けまで登場した。
 北朝鮮の行動がなぜ「分からない」のかについては、あらためて書くとして、金与正はさらなる強硬措置を予告しているので当面要注意だ。
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 2002年10月15日、北朝鮮から拉致被害者5人が帰国した。小泉訪朝の最大の成果だった。

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 いま、あの時のような拉致問題の進展を期待して、「まずは安倍首相が金正恩に会って、首脳同士サシで話をすべきだ」という声が大きくなっている。

 北朝鮮への圧力強化を一貫して主張してきた安倍首相は、トランプ大統領金正恩の「蜜月」を受けてコロッと方針を変え、去年5月、“前提条件なしでの対話”へと転換した。

 そこで、強硬派も融和派も「とにかく首脳会談を」という流れになっているのだが、私は違和感がある。

 「前提条件なしの首脳会談開催などと言っている安倍一味の厚かましさはこの上ない」(朝鮮アジア太平洋平和委員会の報道官 6月2日)という北朝鮮の反応はともかく、会えばいい、というものではないと思う。

 02年9月の小泉訪朝は、直前に突然発表され「電撃訪朝」と言われた。

 しかし、その実現までには、水面下での膨大な「外交努力」が積み重ねられていた
 小泉首相の「密使」だった田中均(当時、アジア大洋州局長)によれば、首相は訪朝して拉致問題の打開をはかることを決意し、田中氏に命じて、01年秋からの一年におよぶ周到な裏交渉を行わせたという。

 国民の命がかかっている。失敗したら内閣がふっとぶだけではすまない。小泉首相は全責任を負う覚悟を決めて田中氏に任務を与えたはずだ。

 《私はほとんどの場合、週末を活用して、北朝鮮側(ミスターX)と二十数回の交渉を行った。(略)交渉前の木曜日か金曜日に必ず官邸に総理や官房長官を訪ねて事前の打合せを行い、交渉から帰国した後の月曜日か火曜日に再び官邸を訪れて報告をするということを一年間繰り返していたのである》。(田中均『外交の力』P103)

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 完全な裏交渉であるから、お互いを慎重に値踏みする。果たして相手はちゃんとトップの信頼を得ているのか、と。おもしろいエピソードがある。

 《先方も、私が小泉首相の信頼を得ているのかどうかということには非常に拘(こだわ)った。民主主義国は人よりポストである。私は一言述べた。
 「それは日本の新聞を見ればよい。『総理の一日』欄を見れば私が総理と常に相談してきているのがお分かりになるでしょう」》(P107)

 新聞の首相動静の欄には、交渉中、田中氏と総理との面会が88回載ったという。 

 この聞、田中氏は、北朝鮮に「スパイ容疑」で拘束されていた元・日経新聞社員を無条件解放させ(02年2月)、02年5月の中国瀋陽の日本領事館に脱北者5人が駆け込んだ事件を解決し、と難しい事案を粘り強い交渉で打開している。

 首脳会談の前、日本側が支払う「賠償・補償」の金額を示せと要求する北朝鮮の「ミスターX」と拉致の情報を出せと迫る田中均氏の間で議論が堂々巡りになったとき、「ミスターX」が思いつめたように、こういったという。

 「あなたは更迭されることですむかもしれないけど、自分たちはそんなものでは済まないんです。私は命がけでやっているのです」。(船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』)

 失敗したら最悪は処刑だ。かの国の担当者の必死さが想像できる。

 田中氏も、首相からの全面的な信任と自身の強い使命感のもと交渉を続けたからこそ、小泉訪朝がセッティングでき、あの「成果」が生れた。

 この間、この動きが全く外に漏れなかった。大したものだと、日本の外交を見直した。

 その田中氏を安倍首相は目の敵にし、融和派の代表として叩くことで、自らを「強硬派」であると印象づけた。(きのうのブログで引用した国会質問に出てくる)

 しかし、田中氏は外務官僚である。自身の主義主張で動いているわけではない。

 事実、田中氏は、大韓航空機爆破の実行犯、金賢姫に会ったり、北朝鮮に制裁を科したり、日米防衛ガイドラインの策定責任者になったりと、北朝鮮が嫌がる仕事もしている。

 官僚を使って拉致問題の打開に向けて努力させるのか、官僚に文書捏造を強いて自死に追い込むのか。官僚をどう使うかは、政権次第である。

 拉致問題がまったく動かないまま時間が経っていくことには、私も耐え難い思いをもつ。「とにかく首脳会談を」と言いたくなる気持ちも分かる。しかし、トップが会えば何とかなるというものではないのだ。

 安倍首相はほんとうに命がけで拉致問題の打開をすると決意しているのか、そしてその指揮のもとで政府が真剣な努力を行っているのか。それが問題だ。 

 ナチズム、スターリニズムを研究したハンナ・アーレントという思想家がいる。彼女は『全体主義の起源』という著作で、全体主義は独裁とは全く別のメカニズムだと主張し、その外交に関してこう指摘する。

《外部世界の目には運動の中で彼(指導者)だけが非全体主義的な概念を使って話し合うことがまだできる唯一の人間に見えてくる。(略)外部世界の人々は(略)全体主義政府と交渉せねばならなくなると、いつも「指導者」との個人的会談に期待をつなぐ》

 全体主義の指導者(例えばヒトラー)だけは、ものの分かる、腹を割って分かり合える人間に見えるので、私たちはヒトラーとサシで話すしか打開の道がないと思ってしまうということだ。

 そして、世界はヒトラースターリンに何度も騙され、期待は裏切られてきたのである。米国、韓国は、何度金正恩と首脳会談を行ったのか。

 首脳会談だけに過大な期待を抱くことなく、不退転の決意で、あらゆる知恵を振り絞り努力を続けるしかない。歴史の冷徹な教訓である。
(つづく)