「恵子さんは私が拉致しました!」
泣きながら、恵子さんの両親、明弘さんと嘉代子さんに土下座して謝った「よど号」犯の元妻、八尾恵。
八尾は、東京地裁で2002年3月12日と3月26日の2回にわたり検察側証人に立ち、「よど号」グループと北朝鮮の日本人拉致に関する証言を行なった。
検察官の質問に答えるその口調は淡々としていたが、語られる事実はこれまで知られていなかった驚くべきもので、傍聴していた私は興奮でメモをとる手が震えた。
以下が法廷証言の抜粋である。
《「日本革命村」は、平壌郊外の元新里(ウォンシンリ)にあり、「よど号」犯とその8人の妻たちが一緒に暮らしていました。革命村では互いに本名を呼ばず、私は「中山明子」と呼ばれていました》
《革命村は一般人が自由に出入りできないところにあり人民軍が歩哨に立っていました。居住用のアパートのほか、事務所、田宮(注:リーダーの田宮高麿)のアパートのほか、事務所、田宮の執務室、食堂、娯楽室、そして朝鮮労働党連絡部56課の指導員の事務所もありました。56課は、金日成の教示の日付(5月6日)から命名され、よど号グループのための専属の部署で、金正日が直轄していたと理解しています》
その金日成の教示とは「革命の代を継ぐ」、つまり結婚して子どもをつくれというものだった。
《1975年5月6日、金日成主席がよど号グループに謁見し、日本革命のためには、代を継いで革命を行なって行かなくてはならない、よど号グループも結婚相手を見つけるようにと教示されたと田宮などから聞きました》
「朝鮮労働党連絡部」は工作機関である。証言によれば、「よど号」グループには、56課という専属部署が設けられ、北朝鮮の工作機関の一部に組み込まれていたという。隔離された世界で、思想学習の他、射撃などの軍事訓練やスパイ教育も受けていた。
そして八尾に拉致指令が下される日がきた。
《1983年1月ごろ、革命村の田宮の執務室で、私と福井さん(注:小西隆裕の妻、福井タカ子)に任務が与えられました。田宮は「ロンドンに行って、日本人の指導中核となる人、特に若い女性を連れて来い。25歳以下の若い女性がいい、何人でもいい」と指示しました。》
八尾はこれを聞いて、おや、と思ったという。それまでは男性、女性と性を指定されることはなかったからだ。
《田宮は「男性ばかり獲得したやろ。女性も獲得せなあかん」と言いました。私は、これは結婚させて子どもを産ませるのだなと思いました。森さんと黒田さんがスペインから男性を二人「獲得」してきたことを知っていたからです。男性とは会ったことはありませんが、男性二人を連れてきたことは「経験発表」で聞きました》
前回のブログで紹介した石岡亨さん、松木薫さんの拉致は、日本人「獲得」の成果としてメンバーに共有されていた。八尾は、自分に与えられた任務が、彼らの配偶者を拉致することだと理解した。
83年3月に八尾は福井とロンドンで対象者を探すが見つからず、5月に一人でロンドンに行った。日本人も多く学ぶ「インターナショナルハウス」という語学学校に入った八尾は、そこで有本恵子さんと知り合うことになる。5月末のことで、恵子さんがそろそろロンドンを引き払い帰国する予定を決めようとしていたころだった。
獲得対象の条件は、思想的に無色、性格は正直で素直、まっすぐ、義理堅い人、親戚に警察関係がいない人、親とのしがらみがなく自由に行動できる人だった。恵子さんはぴったりあてはまる対象者だった。
ホームステイで、そこの家族とイギリス風の食事をしていた恵子さんは日本食に飢えていた。八尾は自分のアパートに呼んで、カレーライスや水炊きなど日本食を作って恵子さんを喜ばせた。
八尾が恵子さんと同じ兵庫県出身(尼崎生まれ)だったこともあり、二人は急速に親しくなった。5歳年上の八尾は、恵子さんにとって信頼できる「お姉さん」だった。
八尾の告白本『謝罪します』(文藝春秋)には恵子さんについてのこんな記述がある。
「彼女は、もともとは引っ込み思案で慎重な女性だったそうです。両親の反対を押し切ってロンドンに出てきたことも、彼女にとっては大変な決断であり冒険でした。
『出てくるのに、すごい勇気がいってんよ』
ロンドンに来て、彼女はいろんな生き方をしている人と出会い、ますます自由な生き方に憧れるようになっていました。まもなく学校の勉強も終わり、
『日本に帰るしかないかなあ、でももったいないなあ』と迷い、日本に帰ったらもう二度とヨーロッパには来れないと彼女は残念がっていたのです。私は、有本さんの中にいろんなものへの好奇心がむくむくとあふれるように湧いてきているのを感じました」(P265-266)
八尾はそんな有本さんの心情を観察しながら、北朝鮮に連れて行くための口実を考え、誘う機会を探っていた。6月のある日、日本食を作ってご馳走したとき、そのチャンスがやってきた。
《有本さんが「もう日本に帰らないといけないけど、せっかく思い切って日本から出てきたのだから、できればもう少し世界を見たい。お金もないので、働きながらもっと世界を見て回れたらいいな」と話したので、私は「市場調査のいいアルバイトがあるんだけど、一緒にやらない」と誘ってみた》
《有本さんは『おもしろそう。もし仕事があるならやってみたいな』と関心を示しました》
恵子さんが日本の友人に「もう帰りの切符も買ったのですが、今、突然と仕事が入って来たのです」と書き送ったのは、八尾の誘いの直後だったと思われる。
八尾はいったん旧ユーゴスラビアのザグレブ(「よど号」犯グループの欧州作戦の拠点)に行き、「よど号」担当の「労働党連絡部56課」の指導員、キム・ユーチョルとチェという指導員、「よど号」犯の安部公博(注:現在は魚本姓)にくわしい報告をおこなった。
キム・ユーチョルは「56課」の副課長で、ザグレブの北朝鮮領事館の副領事の肩書を持っていた。日本語はペラペラで、「ウツノミヤ・オサム」名義の日本のパスポートも持っていたという。
北朝鮮領事館から平壌の田宮にテレックスで有本さんの件を報告すると、まもなく平壌から最終的な「承認」がテレックスで返ってきた。
有本恵子「獲得」作戦が実行に移されることになった。
八尾はロンドンの恵子さんに電話をかけて、アルバイトの依頼者に紹介するためと言って、コペンハーゲンで会う約束をした。
八尾が恵子さんとコペンハーゲンで会ったのは83年7月15日。恵子さんが神戸の実家に出した絵ハガキに、7月15日に「友達」に会うと書いたとおりだった。
7月15日の昼、八尾はコペンハーゲンの中央駅で恵子さんと会い、夕方、連れ立って中華料理店に行くと、安部公博がすでに来ていた。
安部はアルバイトを募集している貿易会社の社長の役を演じて「市場調査のアルバイトをしてもらいたい。北朝鮮で仕事があるので行ってくれないか」と持ちかけた。
遅れて現れたキム・ユーチョルを八尾は、安部の取引先で、北朝鮮で貿易の仕事をしている「キンさん」と恵子さんに紹介した。
《キム・ユーチョルはパンフレットを見せながら、「私は北朝鮮で生産したもの、青磁や朝鮮人参などを外国で売っている」と話しかけました。安倍は市場調査について「北朝鮮ではどういうものが作られ、どういう国にどういうものが売れているかなどについて調べる仕事だ」と説明しました》
《安倍は「北朝鮮で市場調査をしている間の滞在費、旅費は全部タダやで。日本と違って社会主義でおもしろいよ。ついでに見学でもして勉強してくれば」と勧めました》
《私は初めて聞いたふりをして、「へえー、おもしろそうだな。行ってみようかな」と言って有本さんを見ると、有本さんは「一緒に行ってくれるなら、行ってみようかな」と言いました。安倍は私に「あなたはその前に別の仕事をして、遅れて行ってもらいたい」と言うと、有本さんはちょっと不安そうでしたが、「後から必ず来てくれるのだったらいい」と言いました。キム・ユーチョルは有本さんに「パスポートを預からせてほしい」と言い、有本さんはパスポートをキム・ユーチョルに渡しました。出発は次の日と決めて、その場でいったん別れました》
3人で役柄を決めて恵子さんを騙すやり取りが生々しく語られている。恵子さんの決心を後押ししたのが、八尾も「一緒に行ってくれるなら」という条件だった。
恵子さんは翌日7月16日、キム・ユーチョルとともに北朝鮮に向かうことになった。
《私と有本さんはコペンハーゲンのカストロップ空港で、安部とキム・ユーチョルに会いました。私と安倍はコペンハーゲンに残り、キム・ユーチョルと有本さんがモスクワに向かいました。私たちは搭乗口に向かう有本さんを見届け、飛行機を見送りました》
八尾は後に、石岡亨さんの親友(棟方周一さん)への手紙により詳しく、こう書いている。
「有本恵子さんは、7月16日、コペンハーゲンのカストロップ空港から、『ホン・スッキム』という名前で北朝鮮の公民旅券を使って、モスクワ経由でキム・ユーチョルと一緒に北朝鮮に入国しました」(『平壌からの手紙』P168)
《そのあと私はまた若い女性を「獲得」するためにロンドンに戻り、安部は別の活動に移りました》
そこで恵子さんを待っていたのは何だったのか。
(つづく)