有本恵子さん拉致の全貌 1

 有本恵子さんはどのようにして拉致されたのか。

 ジン・ネットの取材班は、恵子さんの母親、有本嘉代子さんとともに恵子さんの足取りを追って欧州各国を取材し、2001年11月に「『よど号』よ!娘を返せ-欧州拉致事件の真相-」と題する特集を「サンデープロジェクト」で放送した。以下はその取材成果である。

 神戸市外国語大学で英語を学んでいた有本恵子さんが、卒業を控えた1982年3月、「ロンドンに留学させてほしい」と言いだしたとき、有本夫妻(父親の明弘さんと母親の嘉代子さん)は反対した。

 若い娘が一人で外国で暮らすのはそもそも心配だったし、なにより、おとなしい恵子さんがそんなことを考えていることに仰天した。恵子さんは、小さいころから引っ込み思案で、他人の後をついていくばかりの女の子だったからだ。

 だが意外にも、恵子さんがアルバイトでお金を貯め、すでに英国の語学学校の入学手続きまで済ませていることを知り、両親は結局、恵子さんの留学を許すことにした。

 人はあるとき、思い切って自分のこれまでの殻を打ち破りたい衝動にかられることがある。もしかすると恵子さんは、消極的な生き方から脱皮する一つのきっかけを留学に託したのかもしれない。

 恵子さんは4月10日、ロンドンへと出発した。

 出発前、明弘さんは「お金は絶対に出さへんで」と恵子さんに言い渡した。仕送りなどしたら恵子さんが日本に戻ってこなくなるのでは、と懸念したからだ。

 実際、英国滞在中に実家からは1円の援助もなく、恵子さんはホームステイ先の家でベビーシッターのアルバイトをし、出費を切り詰めて堅実に暮らしていた。

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恵子さんは左手の指を口に含む癖があった

 恵子さんは約束どおり、83年の6月末に帰国するはずだった。恵子さん自身も帰国するつもりでいたことは、5月のゴルデンウィークにすぐ下の妹と叔母がロンドンに遊びに行ったさい、洋服など荷物の一部を神戸に持ち帰ってもらっていたことでも分かる。


 恵子さんは6月6日、帰国予定を親に知らせるハガキを買いている。帰国は8月9日になるという。

 《飛行機の切符を買ったので、帰る日をお知らせします。ロンドンを8月2日に立って、シンガポールに行って、そこで1週間ほど滞在し、9日にシンガポールを立って大阪へ行きます。8月9日火曜日、シンガポール航空で大阪に17:15に到着します。6月の末までこの家にいて、7月はヨーロッパを旅行して、それから帰ります》

 だが、その1週間後の6月13日に、恵子さんは、親に告げた帰国予定をキャンセルすると小学校からの友人への手紙に書いていた。

 《もう帰りの切符も買ったのですが、今、突然と仕事が入って来たのです。その仕事というのはMarket research(市場調査)といって、仕事の内容は外国の商品の価格、需要、供給度などを調査する仕事なのです。この仕事だと世界中いろいろな所を見ることもできるし、やってみたいなあ、と思っています。(略)

 この仕事をやると日本へは帰れなくなります。家族には8月に帰ると言ってあるのですが、きっと帰れそうにありません。私としてはいいチャンスなのでやってみようと思っています。とにかく買った帰りのキップはキャンセルします。(略)
 でも何だかラッキーだったなぁー、こんな仕事が見つかるなんて思ってもいなかったし、外国で仕事ができるなんて、今すごく、うれしい気分です。少し大袈裟かもしれないけど、人生の第一歩を踏み出したといった感じです。まだ仕事もしないうちからこんなこと言っていいのかなぁ。とにかくガンバルゾー。・・》

 帰りの切符まで買っていたのに、帰国予定を変更させるほど恵子さんは有頂天になっている。6月6日のあと13日までに間にあったはずの「仕事」のオファーを、恵子さんは親に知らせてはいなかった。

 
 恵子さんは6月28日にホームステイ先を引き払い、翌29日にコペンハーゲンに着いている。コペンハーゲンから両親には絵はがきと封書が1通づつ届いたが、いずれも7月15日に「友達に会う」と書かれていただけで、帰国の予定変更については触れられていなかった。

 8月9日、嘉代子さんが大阪空港まで迎えに行くつもりで航空会社に確認の電話をいれると、恵子さんが便をキャンセルしていることが分かった。驚いて心配する家族に電報が届く。

 《仕事が見つかる 帰国遅れる 恵子》

 恵子さんが差出人で、ギリシャアテネから発信された短い電報だった。

 しばらくして手紙が届く。

 《8月3日、1983

 先に帰国延期の電報が届き心配しているのではと思い、お便りしています。
 実は貿易関係の仕事が見付かり今、ギリシャに来ています。アルバイトとして2~3カ月の間、仕事を手伝ってほしいということで関係者の方々と、ヨーロッパを回り、市場調査をしているところです。今はギリシャにいますが、常に移動しますので、住所を知らせることができませんが、こちらの方々、皆さん信頼の置ける人ばかりなので、御安心下さい。(略)》

 手紙と電報の日付のつじつまが合わない。これはアリバイつくりのために恵子さんに書かせたものだったのだろう。

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 1993年5月、兵庫県警が明弘さんを訪ねてきた。警察は一枚の写真を見せた。恵子さんが男性と並んでベンチに座っている。コペンハーゲンの空港待合室で隠し撮りされたものだった。撮影されたのは、恵子さんが「友達」と会う予定の翌日、7月16日。そして、隣の男性は、キム・ユーチョルという北朝鮮外交官の旅券を持つ幹部工作員だった。

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コペンハーゲンの空港で隠し撮りされた恵子さん。左に見えているのがキム・ユーチョルの手

 詳細は省くが、この時期、北朝鮮の外交官の身分を利用した「工作」が相次ぎ、欧州各国の捜査当局は厳しい監視体制を敷いていた。恵子さんとキム・ユーチョルの写真はその監視活動の成果として日本の警察に提供されたものだった。

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キム・ユーチョル

 キム・ユーチョルは、1970年代末から80年代はじめにかけて、ユーゴスラビア北朝鮮大使館を拠点にして活動しており、その任務の一つは「よど号」犯とその妻たちの工作指揮だった。

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 「よど号」事件といっても知らない人が増えていると思うが、かつて共産主義暴力革命を呼号する「赤軍派」という集団があり、その一部メンバー9人が1970年に日航機「よど号」(当時日航機には愛称がつけられ、ボーイング727型機には日本の川の名前がついていた)をハイジャックして北朝鮮へと亡命した。

 ロンドンの恵子さんのホームステイ先のクリストファー・ポール氏は、恵子さんの交友関係について、私たちの取材にこう答えている。

 「恵子さんの英会話力はそれほど高いものではありませんでした。行動範囲は狭く、外の世界としては語学学校がほぼ唯一のものだったようです。また、非常に用心深い性格で、初対面の人には警戒的でした。彼女に近づくことができたのは、語学学校の同年代の日本人女性だったのではないでしょうか」

 その推測どおり、恵子さんがロンドンで学ぶ語学学校「インターナショナル・ハウス」で巧みに恵子さんに接近する一人の日本人女性がいた。用心深い恵子さんだったが、自分と同じ兵庫県出身だというその女性に「お姉さん」と呼ぶほどの全面的な信頼を寄せるようになる。

 失踪から19年たった2002年3月、その女性が恵子さん拉致を法廷で証言し、事件の驚くべき全貌が明らかになった。

 あの小泉訪朝の半年前のことである。
(つづく)