現代における報道写真の意味

 板門店で、トランプと金正恩の電撃会談。驚きました。さらには、金委員長を「ホワイトハウスに招く」って?そこまで言うか・・
 トランプ大統領は、とんでもないひとりよがりなのだが、まわりが相手せざるを得なくなって、結果乗せられていくんだな。
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 きょう18時からBSフジ サンデースペシャルで、ジャーナリスト安田純平さんの特番が放送された。ディレクターの菅家久さんが獄中日記を丹念に読みこんで、拘束の実態とそこでの安田さんの格闘を描いている。フリーランスとしての悩みなども赤裸々に綴られていて、私自身も学ぶところがあった。これで安田さん拘束事件についての一応のまとめとしたい。
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 ジャーナリストの生き方ということでは、もう3週間も前、6月9日になるが、報道写真家の渋谷敦志さんの写真展「まなざしが出会う場所へ -渇望するアフリカ-」(富士フイルムフォトサロン)に行ってきた話をしたい。

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 渋谷さんは釜ヶ崎で写真を撮り始め、その後、アフリカをはじめ世界各地の紛争地などを取材してきた「旅する写真家」だ。
 《「アフリカの水を飲んだ者は必ずアフリカに回帰する」という諺(ことわざ)の通り、20年もの間、アフリカ通いを続けている。主に紛争や飢餓、難民や貧困の現場を取材し、困難を生きる人びとから「おまえは何しに来た」と問うまなざしを突きつけられてきた。なぜ撮るのか。写真で何ができるのか。葛藤し続けた20年でもあった。そのまなざしに何度も挫折しそうになった。それでもなお、ファインダー越しに見つめ、見つめられ、まなざしが交差する場所から目をそらさないこと。そこに自分が写真を撮り続ける理由の源を見出してきた。置き去りにできない眼との対話の記録ともいえる今回の写真展が、世界や他者とのつながりを再想像する場となってほしいと願っている。》(渋谷さん)
 9日は、渋谷さんと文化人類学の研究者、今福龍太さん(東京外語大教授)とのギャラリートークがあった。とても興味深く、学びの多い内容だったので、さわりを紹介したい。

 渋谷さんの写真には、難民など極限に置かれた人々が多く被写体として登場する。カメラを向けるのがためらわれるほどの状況において、なお写真を撮る意味は何かというテーマが話された。

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今福:

 渋谷さんは難民キャンプなど、人道的な、ヒューマニズム的な観点からいえば、悲惨な現場を見て、自分はなぜそこにいるんだと、こういう現場にカメラもって侵入していって撮る。それが写真の宿命でもある。
 深いディレンマの中で、ものを考えるところが、渋谷さんのすごく誠実な部分と倫理を作ってきた。その問題を少し深めてみたいと思う。

 サルガド(セバスチャン・サルガド=世界的な報道写真家)ともよく話をするが、彼はあまりにも悲惨な戦争なり飢饉なりの風景をあまりにも美しく撮りすぎると言われて批判されている。こんなに酷い状況をこんなに美しく撮っていいんだろうか、と。
 サルガドの映像をただ美しいと見るのは目の浅い部分だ。想像力の足りない部分。

 我々はヒューマニズムに過剰な価値を置いていて、それは人間の命を重要なものとしてとらえようとしているのだが、一方で人間中心主義に陥るわなにもなるわけで、そこは微妙なところだ。ヨーロッパ的なヒューマニズムでは。
 難民キャンプなどで子どもたちが次々に亡くなっていくような現場を見ると、どうしても、個人の命の大切さにもとづく、ヒューマニズムの感覚を発動してしまって、「では自分は何ができるのか」「写真家は救うことはできない」となって迷うわけだ。
 だけど、サルガドは人間がそうやって苦悩している現場は、必ずしも悲惨なものとか悲劇的なものではないという。むしろ人間の尊厳が脅かされたり押しつぶされそうになっていくときに、人間の苦悩という風景が生まれるという。人間の苦悩の風景を写し取るということは、人間の最も深い尊厳の時を証言する、写し取る、そういう行為になるんだと。
 だから悲惨でかわいそうだという考え方を超えなきゃいけないということだ。ある種の美しさと尊厳の風景。人間悩んでれば、悩んでるほどそうなるんだと。サルガドは、もっとも美しい写真を撮る人だと言われるが、それへの最終的な応答はそういうことだと思う。
 だから「個人」の写真を撮っているのではない。個人の写真を撮っているのであれば、悲惨で悲しいことだが、「人間」の風景ということであれば、個人を超えた風景がそこにある。
 人間はどういう状況であれ、、どこにいようと、幸福と不幸とつねにかかえて、生きていく。物質的に豊かな、例えばアメリカ社会で生きてる人間が、アフリカの苦しんでいる子どもたちより幸福かというと、必ずしもそうは言えない。
 日本もそうかもしれないが、文明社会、高度資本主義社会が持っている病理というものは、もっと見えない形で人間の命を蝕みつづけている。
 そう考えると、ブラジルやアフリカの人々は物質的には貧しいし、病気や様々な原因で短い命で終ってしまうかもしれないが、社会全体の病理によって知らず知らずのうちに冒されることからは解放されているという部分もあるかもしれない。
 渋谷さんの倫理的なジレンマというのは、もうちょっと広げて考えていくいくことで反転させていくことができればと思う。

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今福龍太さん

渋谷:

 日本やアメリカ、世界中で、人がバラバラにされてしまうあたりに苦しさ、生きづらさを感じることがある。
 それをリカバリーしていくために失ってはならない感覚は何だろうということをつねに自分に問いかけながらやっている。特に困難な状況にある人の写真を撮っていると、分かりえない、相手の気持ちにはなれないし、替わってあげることもできない以上、何かしら他人事として見るしかない部分もあるが、それでも分かりたいという気持ちもある。でも分かりえない、そのジレンマをずっと抱えながら、でも撮り続ける。
 そこで、僕自身が「つながり」をつくりたい、写真を撮ることで、また写真をこうやってみなさんに見ていただくことで、人と人とのつながりを支えていけるような場をつくる、そういう仕事をしたいと思っている。

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谷敦志さん。1975年、大阪生まれ。

 それをつうじて、私と出会った人が、確実に、大きな声では届けえなかった言葉というものを、言葉とは違った形で持ち帰っていただいて、日常、時間をかけて、それぞれの生活のなかで、小さな変化を重ねていっていただけるのではないか。そういう地道なアクション、僕なりのリアクションとはそういうことかなと。苦しい言い訳かもしれないけど。
(つづく)