現代における報道写真の意味4

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 オオマツヨイグサ。ガードレールそばのアスファルトの亀裂から生え出て、はっとするほど美しい花を咲かせている。よくここまで育ったな。
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 朝からテレビはジャニー喜多川氏の話。8時からのワイドショー、45分経ってザッピングしたら4局でまだその特集が続いており、テレビ界におけるジャニーズ事務所の力を見せつけていた。
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 渋谷敦志さんと今福龍太さんの対談から、続き。話は、写真を、機械ではなく人間が撮ることに及んでいく。

渋谷:
 一人で、カメラというシンプルな不完全な道具を使って、そこに行かなければ撮れない。そこに行って、人に会って、という面倒なプロセスを経なければ、写らない。それが写真。


今福:
 渋谷さんの写真をみると、カメラが撮ってるというより、人間の眼が見ている、眼が見た、眼が反応した風景であることは間違いない。
 いまや像は機械がアルゴリズムによって人間の眼を介さないで撮ってしまっている、そういう時代。人間の眼が見た像を撮り続けることが本当に大事だと思う。サルガドもひたすらそれをやり続けている。
 いまは人間の眼ではないものがあらゆるものを撮って、すぐに通信の中に取り込んで何らかの政治判断、経済的な判断をしてしまっている。人間の眼で見ている記録、その大事さをいつも感じる。


渋谷:
 肌身の感覚、実際に体を使って人に会っていくという身体感覚が与えてくれる信頼感。確実にたしかに世界に触れているという。自分が写真を続けてこれたのは、きっと生身の感覚をどこかで大切にしていたし、いまも通っているのも、その感覚を忘れたくないからかなとと思う。


今福:
 渋谷さんとは台湾で一緒にトークしたこともあった。台湾や沖縄や東南アジアの島々を撮った東松照明さんの話をした。東松さんの大切な、写真家の最後の守るべき拠点について知られた言い方がある。
 写真家は、
 医者のように治すわけでもないし
 弁護士のように弁護するわけでもないし、
 神父のように支えるわけでもないし、
 落語家のように笑わせるわけでもない、
 歌手のように酔わせるわけでもない、
 ただ見るだけなのだ。


 徹頭徹尾、徹底して観る、これが写真家で、それ以上のことはしない、それだけだ。それが写真家なんですよ。眼で見ることがますます奪われていますから、これが最初であり最後の拠りどころにしてがんばっていただきたいなと思います。


渋谷:
 見ること、学ぶことが写真をやる意味なんだろうなと思っていた。
 誰かがちゃんと自分の目で見て、その像が残ったり、それを次の誰かが見ることができる、そして誰かが何かを考える、見る人間たちの考えにゆだねる、それ以上のことを写真家は考える必要がないと東松さんはよくいっていた。
 究極の「見る」ということじゃないかな。
(対談の抜粋終わり)

 この対談は、報道写真を撮る原点は何か、今という時代の課題にどう向き合うかを考えさせるもので、とても学ぶところが多かった。ジャーナリズムの劣化が問題になっているいま、こういう議論がほんとうに必要になっていると思う。