日本人は昔から花見が好きだった

 きょうは明治神宮へ。美しい新緑のなか、たくさんの外国人観光客が訪れていた。日本人の参拝者よりはるかに多い。

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 私がここに来たのは、姪の結婚式のため。動画撮影を頼まれ、一日、カメラマンをやっていた。いい結婚式だった。相手がバツイチで子連れとあって、当初結婚への強い反対もあり揉めた。だが、きょう新婦が当時の事情を素直に吐露し、家族の支えで困難を乗り越えることができたと涙する感動的な披露宴になった。

    苦労が報われてよかったね。
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 東京では葉桜になりつつあるが、この週末、満開の各地では花見でにぎわったようだ。花見というのはいつからあるのか。
 『逝きし世の面影』(渡辺京二)を読み返していたら、《徳川後期の日本人が四季折々の行楽をたのしむ人びとであったことは(略)外国人観察者の注意をひかずにはおかなかった》と書いてあった。彼らは日本人の《自然と親和する暮らしぶりに驚きと驚嘆を禁じえなかった》という。
 《ベルクによれば、「日本の市民の最大の楽しみは、天気のよい祭日に妻子や親友といっしょに自然の中でのびのびと過すことである。墓地や神社の境内や、美しい自然の中にある茶店にも行く」》
 《公園や郊外の田園でのどかに一日を過すという習慣は、むろん西洋人とて知らなかったわけではなかろう。(略)しかしそれは貴族の趣味であって、庶民の楽しみではなかった。ベルクは自然のなかで休息し喜戯する習慣が、庶民のあいだにひろまっていることに注目しているのだ。モースは言う。「この国の人々が、美しい景色をいかにたのしむかを見ることは興味がある。誇張することなしに、我国の百倍もの人々が、美しい雲の効果や、蓮の花や、公園や庭園をたのしむのが見られる」》
 ベルクは幕末に来日したプロイセンの画家で、モースは明治10年に来日し東大で教えたアメリカの生物学者だった。
 行楽のうちでも最大の楽しみは花見だった。
 シッドモア(明治17年来日した米人女性)は《横浜近郊の杉田という梅の名所についてこう述べている。「梅見の期間を除けば、杉田の存在はほとんど注目を引かない。・・・花が開くと杉田は休日の雰囲気をかもしだす。茶店も開けば、立て場茶屋もさっと姿を現わし、赤もうせん敷きの縁台をたくさん小森中に並べる。(略)この小さな村里を訪れる者が一日に千人ということも珍しくない。・・・人込みなのに、万事が気品あり、落着きがあり、きちんとしている。枝もたわわな花の下に腰を掛け、沈思、夢想にふける人。梅花に寄せて一句を物し、書き留めた紙片を枝に結びつける人。こうした日本的な耽美ほどあか抜けした悦楽はないのだ」。》

 桜の花見はどうか。
 《川添登によれば、江戸の桜花見の元祖は上野寛永寺で、寛文・延宝期(17世紀後半)にはすでに鳴物入りで酒宴が行なわれていたという。しかし1680年代になると、鳴物は御法度などとかなり規制がすすんで、元文年間(1730年代)には賑わいは飛鳥山へ移り、さらに寛政期(18世紀末)には日暮里が栄え、天保期(1830年代)には向島の全盛を迎えた。「寛政の頃の花見は、たんにドンチャン騒ぎをするのではなく、歌・浄るり・おどり・俳諧狂歌などをする、という、はなはだ文化的な花見となって」いた。》(以上の引用はP450-457)

 今も花見は盛んだが、かつての日本人の方が、より豊かな四季の機微を感じていたように思われる。
 たくさんの花が咲く時節を迎え、ちょっと昔を振り返ってみた。