石川文洋さんと再会して

 ベトナムの戦場を撮ったことで知られるカメラマンの石川文洋さんと、きょう、十数年ぶりにお会いした。
 うちの若手ディレクターO君が、文洋さんを主人公に番組を企画したいというので、一緒に自宅のある長野県上諏訪に出かけたのだった。駅の改札に出迎えていただき、喫茶店で3時間お話した。
 文洋さんは80歳。12年前、心筋梗塞で心筋が壊死して44%しか動いていないそうだ。さらに今年4月と5月にも心臓の手術をしたという。その文洋さんが、来月9日から徒歩で日本縦断の旅に出る。北海道の宗谷岬を出発し、故郷の那覇市に着くのは来年2月末。「最後まで歩きとおせるかどうか、わからないが挑戦したい」と意気軒高だった。
 文洋さんは65歳の時にもやはり日本縦断をしており、その紀行は本にもなっている。その時は日本海側を歩いたが、今回は太平洋側をたどる予定。東北では大震災の被災地も訪ねる。週一で共同通信に紀行エッセイを書くそうだ。無事に完遂できますように。

(『戦場カメラマン』を手に、旅を支援するモンベルから贈られた「戦争のない世界を」のワッペン付きリュックと)
 仕事もかなり入れているようで、今月はちくま文庫から『戦場カメラマン』が出版された。これは1986年に朝日文庫から出たものの復刻。古典といっていい。せっかくなのでサインしてもらった。
 Oディレクターは、文洋さんに会うためにしこたま本を買い込んで読みまくっていたが、そのうちの一冊に『ベトナム最前線』という文洋さんにとって初めての本があった。出版は1967年で半世紀前。その前書きを見て仰天した。「石川君の黒い瞳」と題するまえがきを、なんとあの石原慎太郎氏が書いていたのだ。
 石原氏が「週刊読売」からベトナムに派遣されたさい、文洋さんが各地を案内して親しくなったのだという。石原氏はいったいどんなことを書いたのか、紹介しよう。
 ベトナム戦線Dゾーンのチャンバンの砲兵陣地で、訪れた我々日本人記者団に向って、試みに大砲の引き金を引いてみないかと副官にすすめられたことがある。かつて戦闘経験のあるM記者が簡単に鉄兜をかぶって砲座に入り引き金を引いた後、番が私に廻って来そうになった時、同行していた石川カメラマンがおだやかな微笑だったが、顔色だけは変えて、
「石原さん、引いてはいけません。引くべきでない。あなたに、この向うにいるかも知れない人間たちを殺す理由は何もない筈です」
 といった。
 躊躇している私に、陽気な副官は鉄兜をさし出し、
 “Kill fifteen V.C.!”
 と叫んだが、幸か不幸か突然射撃中止の命令が入り、その時間の砲撃は止んでしまった。
 私は今でもその時の石川君の、私を覗くように見つめていた黒いつぶらな瞳を忘れない。童顔の、あどけないほどのこの若いカメラマンの顔に、私はその時、なんともいえず悲しい影を見たのだ。
 彼がもし強く咎めていたら、私は天邪鬼にその後まで待って引き金を引いていたかも知れない。
 沖縄という、祖国の中で唯一、特殊な状況にある故郷を持った彼が、あの邪悪な戦争を見る眼は、確かに我々内地の人間とは違っているに違いない。
 しかし彼はそれを決して叫んだり、饒舌に語ったりはしない。カメラという非情の眼を通しながらも、彼は静謐に敵味方、彼我を超えた、地獄に置かれた人間の悲しき惨めさを撮りまくっている。それは、ジャーナリストという立場を超えた、一人の人間としての祈りの態度にも似ている。
 昨今、在ベトナムの日本人カメラマンは多いが、彼ほど長い期間にわたって、各地をくまなく巡り歩いているカメラマンは他にいないだろう。
 私が初めて会った時、彼は前線でかかったマラリアと、ベトコンのしかけた戦槍(ランセット)の陥し穴に落ちて受けた傷が癒され切れずに、青ざめた半病人の姿で現れた。その彼が新しい取材のためとなると、三十八、九度の熱をものともせずに夜に日をついで行動するのに驚かされた。
 私が風土病の下痢に倒れて寝ている時、看病に、ホテルに泊ってくれた彼の方が、実は私よりも高熱を出していたりしていたものだ。
そうした病いと傷だらけの彼と会って話しているだけで、私はあの戦争の深部にあるものを理解出来たような気がした。それほど彼の語る言葉は、虚飾なく、むしろ、いつも大層控え目に、ことの真実を明してくれた。

 好漢、日本で数ヶ月の保養の後、今三度、ベトナムの地に戻って活躍中だが、私は一人の共感厚き同世代のこの友人に、ただ、どうか生きて帰って来てくれと願う言葉しかない。》

 ほう、若き日の石原氏が、ベトコン支配地区に向いている大砲を試し撃ちしかかったのを文洋さんが止めたのか。象徴的なシーンである。
(つづく)