今も続くハンセン病への偏見

 自転車で走っているとよく甘い匂いが漂ってくる。栗の開花の時期だ。白っぽい穂のようなものは雄花だそうで、これが香りの元だ。動物も植物も、自然の時を知って生きている。
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 昨夜は惠谷治さんのお通夜に行った。どうしてこんなに、と驚くほどたくさんの弔問者が参列して、定刻に着いたときには、焼香待ちの列が30m以上にもなっていた。

 2年ほど前に自ら頼んで撮ってもらったという遺影は、やはりサングラスをつけていた。写真コーナーがあり、遺影の前に、レイバンのサングラス、ショートピース、キューバの葉巻コイーバが供えられていた。精進落としの場で向かいに座った女性は、ジャズクラブ「Body&Soul」のオーナーで、ご縁を聞くと、惠谷さんは大学時代から通っていた常連だという。惠谷さん、お洒落でハイカラな人だったのだな。酒も入って、探検部関係者や初めて会ったフリーライターの人と惠谷さんの思い出話が尽きず、二次会でまた呑んで最終電車で帰宅。帰路、懐かしくなってショートピースを買い、吸いながら惠谷さんを偲んだ。
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 きょうは午後からハンセン病の療養所「多磨全生園」(たまぜんしょうえん)へ。ちゃんと勉強しなくてはと、初めて訪れた。

 はじめに納骨堂にお参りする。ここには全生園開設以来、亡くなった入所者4200人以上のうち2400人以上のお骨が納められているという。ハンセン病というと我々の世代は松本清張の「砂の器」、特に加藤剛が主演した映画を思い浮かべるが、差別、偏見の凄まじさがベースになった作品である。この園で亡くなって、お骨の行き場がない人がたくさんいたのだ。「国立ハンセン病資料館」には、回復者のこんな言葉が掲示されていた。
 「辛いのは、(自分自身の)この病気の辛さよりは、(自分のせいで差別される)家族のこの苦しみが、痛みが、辛いんだよ。だからそんなもんから逃れてこっち(=療養所)来たら、うちの家族も助かるし」。
 自ら家族との関係を絶った人も多かったという。別れたわが子を思う母の詩には涙を誘われた。
 語り部の回復者が20人ほどの入館者を前に証言するイベントがあり、強制隔離政策の下での暮らしや思いを聴くことができた。記事や番組で知ったつもりになっていたが、はやり直接の語りに接するのは違う。国家の政策だけではなく、一人ひとりの心の中にある偏見や差別が強制隔離という非人道を許してきた。きょうの語り部の人は、家族に迷惑がかかると悪いので、写真は顔がでないよう後ろから撮ってくださいと我々に要求した。今も差別、偏見を怖れなければならないことに驚いた。過去の話ではないのだ。これは今のヘイトの問題にもつながっている。