人はなぜ樹を尊重すべきか

 今月は資金繰りが非常にきついな。
  きのうと今日は、月末を乗り切る対策をしていた。こういうとき、自身決して資金繰りが楽でないのに「支払い待ってやるからがんばって」などと言ってくれる人がいる。月末は「ありがとうございます」と感謝の言葉をいう頻度が増える。
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先週、駅前の風景が一変していた。

線路そばの、市が所有する400坪の林がきれいに更地にされている。老人ホームが建設される予定だという。ご時勢かもしれぬが、もったいない。直径1m近い大木もたくさんあって、夜、駅からの帰路、そばを通ると木々の香に癒されたものだ。高校生だった娘がジャンプして桑の実を採って食べたことなどを思いだす。
熊本在住の思想史家の渡辺京二さんが、木を伐っちゃいけないと書いていたなと思って探すと「未踏の野を過ぎて」に収められた文章だった。
 林や木立の伐採はやめよう、と渡辺さんは言う。これは、地球環境保護とかCO2を吸収するとかいう発想ではなく「もっと大切な立場に立って」言っているのだという。
 《この世に美しい樹木が存在するというのは、人間の生存のできればあってほしい添えものなのではなく、人間の生のそもそも実質、あえていえば中核をなすことがらなのである。この世に樹木が存在しないなら、人間は人間としての感性をもつことはできないのだ。太古以来、人間は想像力も美意識もふくめてなべて心というものを、樹木も重要なそのひとつである森羅万象をかたどることで、育て養い培ってきたのだ。
 こういえば、人間は食わんがために太古以来、森林を焼き払って来たのだぞ、などといい出す人が必ずいる。しかし人間は地球を丸裸にしたわけではない。森は残さるべくして残ったのであり、もはや今は、きびしい歯どめが当然かかるべき時代なのである。
 人間はなぜ樹木を尊重すべきなのか。それはその美しさを知るのは人間のみだからである。宇宙の美しき創造物である樹木は、みずからはおのれの美しさを知らない。人間はかわりにその美しさを知るべく創造された生きものである。樹木の美しさを滅して、何の痛痒も覚えぬものは、人間としてのおのれをはずかしめているのだ。
 四季の立田山へ登ってみるがいい。全山の樹木はおまえよく来ておくれだねと、歓呼して迎えてくれるではないか。私たちの枝ぶりのみごとさ、花の美しさをやっと見てくれるのねと、囁く声が聞こえるではないか。そのときわれわれは、自分が何のためにこの地球上に生を享けたのか、しずかに、しかしはっきりと得心するだろう》
(「樹とともに生きる」)(立田山は、熊本市の中央に位置する標高151.7mの山)
 要は、人はなぜ存在するのかにかかわる感性の問題だというのだ。
 深い洞察にもとづくすてきな文章である。