人間は感動するために生きている

 オリンピックの選手たちというのは、それぞれの来し方を調べると、みな普通じゃない。すさまじい競争のなか、大変な努力と困難を経ている。故障やスランプもあれば、コーチや同僚との人間関係、家族関係(中には親や兄弟が重い病気になったり)そして競技団体との軋轢、人によっては経済的な苦労など、たくさんのトラブルを越えてリオまで来たわけである。それだけでもえらい!すごい!
 でも、ここにさらにメダルへの期待がかかる。
 柔道で銅メダルをとった選手たちが「金でなくてすみません」と言っているのを見ると、謝ることないよ、ごくろうさんとねぎらいたくなる。
 私の年代は、マラソン円谷幸吉が、プレッシャーのなか「とろろおいしうございました」との言葉を残して自死したのを覚えている。もちろんこんなのは行き過ぎだけれど、競技者が、国民からの大きな期待を背負っていることは現実であって、選手らの悲壮な表情は理解できるし共感できる。

 近年、オリンピックを「楽しんできます」と言う選手が増えている。スポーツは国家のためではなく個人的営為でしょという理屈はよくわかるのだが、歳のせいか、ちょっとついていけない。ぼろ敗けしても「楽しかった」というのはどうなんだろう。僕が古いのかな。
 柔道女子の中村美里が好きで応援している。


 北京オリンピックで、19歳の若さで銅を取ったのに「金メダル以外は同じ」とニコリともせず怒ったように言った顔がとても可愛かった。ちょっと無理してるんじゃないか、でもサムライだな、と思ったのだった。
 4年後のロンドンオリンピックでは2回戦で敗退。悔しさを募らせた。3度目の正直、リオでは何とか望みをかなえてあげたかったが結果は銅。残念だが、銅でも立派だ。きょう、知り合いと飲んでいたら、彼も中村のファンで「金をとらせたかった」という。彼女の人気が高いのを実感。がんばりやさんだからなあ。
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 「夢をかなえる」というフレーズが毎日流れてくる。さらに「あきらめなければ夢は必ずかなう」とも。
 そのこと自体に反対するわけではないが、「夢」を持たないといけないかのような圧力を感じるというのはうがちすぎか。
 だって、一位になれるのは一人だけで、その他はすべて敗者なのだ。必ず夢がかなうとは、客観的には嘘である。大それたことを成し遂げられなくても、平凡な普通の人生こそが大事なのではないか。

 私の尊敬する渡辺京二氏は、「人は何のために生きるのか」について、女子大生にこう説いている。
 「自分が生きていくということ、これが一番大事で、なぜそうなのかというと、この宇宙、この自然があなた方に生きなさいと命じているんです。
 「ビッグバンから始まった宇宙の進化が創り出したのが人間という存在である。ではなんのために、この全宇宙は、この世界という全存在は、人間というものを生み出したのであろうか。」
 人間は、この全宇宙、全自然存在、そういうものを含めて、その美しさ、あるいはその崇高さというものに感動する。人間がいなけりゃ、美しく咲いてる花も誰も美しいと見るものがいないじゃないか。だから自然が自分自身を認識して感動するために、人間を創り出したんだ。
 そう思ったら、この世に存在意義がない人間なんか一人もいないわけ。(略)ごく平凡な人間として一生を終わって、それで生まれてきたかいは十分にあるわけです。
(『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(亜紀書房)P223-224)
 自分なんか、大したことは何もできずに、生きてる意味がないんじゃないか、と思う若い人たちにこれを言ってあげたい。何かを成すということがなくとも、感動して生きることが大事だと。ほんとうにそのとおりだと思うし私たちも励まされる。