米国人ジャーナリストがヌスラ戦線から解放されるまで

先日、ヌスラ戦線から解放された米国人ジャーナリスト、カーティス氏をインタビューした日テレの特集を紹介した。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20160513
番組では「この男性は解放後、メディアの取材を拒み続けてきた」としていたが、実際は詳しい手記を『ニューヨークタイムズ』に載せており、テレビのトーク番組に家族ぐるみで出たりしている。
この人のケースは解放のための交渉代理人を買って出た人物とカタール政府筋のルートが両方あり、解放の過程も独特で、非常に興味深い。安田純平氏の今後を考える上で参考になると思うので、手記とその他の報道から事実関係を整理してみる。
なお、このカーティス氏はもともとTheo Padnosという名前なので、ここではパドノス氏と記すことにする。
http://www.nytimes.com/2014/08/25/world/middleeast/peter-theo-curtis-held-by-qaeda-affiliate-in-syria-is-freed-after-2-years.html?_r=0

パドノス氏はシリア国境に近いトルコの町に滞在し、毎日のように母親とメールをやり取りしていたが、2012年10月18日を最後に連絡が途絶えた。
家族は、ISに拘束されていたジャーナリスト、フォーリー氏はじめ他の同じような境遇の米国人の家族たちと連絡をつけ、情報を交換し励まあっていたところ、9カ月たって、シュライア氏というフォトジャーナリストがヌスラ戦線の収容所から脱出してきて、パドノス氏と同じ監房にいたと証言。ようやく消息が分かった。
2014年1月、クウェート人のガニム氏(Ghanim al-Mteiri)なる人物が、拘束中のパドノス氏の写真をもって『ニューヨークタイムズ』紙のスタッフに接触してきた。『タイムズ』紙はその写真をパドノス氏の家族にとりついだ。
ガニム氏はイスラム過激派(jihadi groups)の資金調達者として知られ、自分はパドノス氏の解放をお膳立てできると言った。パドノス氏の母親は指示されてトルコのイスタンブールに行き、そこで怪しげな人物と2回会合をもったという。その人物は、会合を夜にすることにこだわった。
その人物は複雑な人質交換を提案した。パドノス氏の母親が、イラク政府が獄中にあった二人の女性(ともにイスラム過激派の妻)を釈放するようアレンジするならば、パドノス氏を解放すると持ちかけた。
このころから、家族のもとにメールと電話で身代金要求が寄せられるようになる。要求額はおよそ300万ドルから始まって最後は2500万ドルまで上がった。
困り果てたパドノス氏家族たちは、サマンサ・パワー米国国連大使カタール国連大使を紹介してもらった。家族によると、そこから事態が進んでいった。例えば、本人確認のための質問(博士論文のテーマは何だったか、など)をパドノス氏に送ることができたという。
2014年7月、パドノス氏が両手を縛られ、自動小銃をもつ男の下に座らされ「命があるのは3日間だけだ」と助けを求めるビデオを家族が受け取った。家族はパニックになったが、カタール主導の交渉に大きな変化は見られなかった。
そして8月に事態が急転する。フォリー氏の処刑ビデオがYouTubeにアップされてわずか6日後にパドノス氏が解放されたのである。

中東政治の専門家によれば、カタールは過去、イスラム過激派武装勢力を支援したことがあったが、現在は米国の重要な同盟国であり、フォーリー氏殺害の後、ISISのような集団には反対しているとの断固としたメッセージを送るために、より強くパドノス氏の解放を保証するよう動いた可能性があるという。
ランド研究所(RAND Corporation)のブレナン氏(Rick Brennan)は、「フォリー氏の斬首の結果として変化が起きている」という。「カタールの関心は、テロとの戦いにおける同盟国と見られることを確実にすることだ。米国人または西洋人の斬首はカタールの利益にはならない」と語る。
ISによるフォーリー氏殺害でパドノス氏の解放を急いだのは、ヌスラ戦線ではなくカタール政府だったと解釈する専門家は多い。

パドノス氏のケースで興味深いのは、自称「代理人」との接触カタール政府の関与という二つの筋がともに登場していることだ。結局、後者の線で解放されたもようだが、身代金が支払われたのか、については不明だ。カタール政府も米国政府も払っていないという立場をとっている。
分析は今後におくことにして、時系列で解放までを整理しておく。
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1)パドノス氏は1968年生まれ。マサチューセッツ大学比較文学の博士号を取り、刑務所で囚人に詩を講義するなどしていたが、イラク戦争が泥沼化していた2004年、欧米以外の価値観を理解したいとイエメンの首都サナアに留学してアラブ語とイスラム教を学ぶ。さらに、シリアの首都ダマスカスの宗教学校で勉強していたが、内戦がはじまり、新聞などに記事を書く。
イスラム過激主義に関する『アンダーカバー・ムスリム』(2011)という本を出版した後、イスラム圏での滞在が困難にならぬよう、改名して母親の姓カーティス(Peter Theo Curtis)を名乗るようになる。アラブ語が流暢になったパドノス氏は、2012年秋からライターとして本格的に中東問題に取り組もうとしていた。
《現地で不自由しないレベルのアラブ語をマスターしていたというパドノス氏。本格派の中東問題のライターをめざしていたようだ》

2)2012年10月2日。
 シリア内戦を取材しようとシリア国境に近いトルコのアンタキアに行く。ある日、アンタキアの町で3人の若いシリア人と会った。ちょっとうさんくさくはあったが、「ここから自由シリア軍に物資を運ぶのが仕事だ」といい、一緒に連れて行ってくれるという誘いにのった。2~3日で帰れると思ったので、当時その町でルームシェアしていたチュニジア人にも行き先を告げなかった。10月18日の母親へのメールを最後に連絡が途絶えた。
《トルコでシリアへの越境方法が分からずにいるところに、トルコにいるシリア人、またはシリアと取り引きのある人がアプローチしてきたり、知りあったりというパターンはよくある》

3)オリーブの農場を抜けて有刺鉄線をくぐり、国境を越えてある廃屋に入った。翌日、ビデオカメラでインタビューされた後、いきなり押し倒され、ピストルで脅されながら手錠をされ縛られた。
 彼らは、アルカイダだといい、もしパドノス氏の家族が身代金(250gの金と同額のお金)を払わないと1週間以内に殺されると告げた。
《3人ははじめからパドノス氏を身代金目的で誘拐している。しかも、どこかの組織のためというより単独で。250グラムの金はせいぜい1万ドルくらいだったらしく、誘拐に慣れていない「素人」だったのではないか。ただの物取りに近いと思われる。》

4)その夜、パドノス氏はその家から脱出することに成功。ミニバスを捕まえて自由シリア軍の司令部に着いたが、すぐに誘拐した3人が現れ、自由シリア軍のアジトに連れて行かれて地面に掘った穴に入れられる。
数日後、自由シリア軍は、パドノス氏の身柄をヌスラ戦線に渡した。
ヌスラ戦線はアレッポの小児病院を司令部にしており、監獄もそこにあった。常時、手錠をかけられ、殴打などの暴行を受けた。看守は棒で殴ったり(家畜の突き棒で)電気ショックを与えたりした。
 監房は光のない真っ暗な部屋で停電のため電球は日に数時間しか灯らなかったため、昼夜の区別がつかなかった。食事はオリーブとハルヴァ(ゴマの菓子)で、看守は病院のトレーにのせて運んでくると床に投げ捨て、「おまえはブタだ、(床に這って)食え」と言って房から出て行くのだった。
 看守は数人いて、リーダーはトルコ語を話すクルド人だった。ときおり、外からトルコ人の集団がやってきて「囚人」たちを虐待した。パドノス氏も、目隠しされ手錠をされたままトイレに連れて行かれるさい、彼らに唾をかけられたり叩かれたりした。
 監房に入れられていたある「囚人」は、天井から手錠をされて吊るされ、「助けて!」と叫んでいたが、看守リーダーはそれを楽しんでいた。
 パドノス氏は「CIAの工作員だと白状しなければ殺す」と脅され拷問された。痛みから逃れるため、そうだと認めた。12月のことだった。
《3人が現地出身者の自由シリア軍にコネを持っていたのは自然だが、この時点からパドノス氏の身柄は3人の手から離れ、自由シリア軍からヌスラ戦線へと渡っていく。身柄の移転にどういう取引があったのかは不明だが、ヌスラ戦線が組織として身代金目当ての誘拐を企図し、その実行を3人に依頼したとは考えにくい。ひどい暴行や拷問が続き「CIA工作員」の容疑者の扱いを受けていた》

5)2013年1月になると、イスラム教への改宗の誘いを受けるようになる。
 1月の第3週、パドノス氏の房にシュライア氏(Matthew Schrier)というニューヨーク出身の米国人フォトジャーナリストが加わった。
 シュライア氏は、2012年12月にアレッポとトルコ国境を結ぶ道路上で、ジープに乗った顔にスカーフを巻いた3人の男たちに銃を突き付けられて誘拐されていた。
3月はじめにはスパイ容疑のモロッコ人戦闘員も同じ房に入ってきた。このモロッコ人に説得されてシュライア氏はイスラム教に改宗した。シュライア氏は、改宗はよい待遇を受けるための便宜的なものだったという。
2013年春から初夏にかけて、ヌスラ戦線は、パドノス氏とシュライア氏の拘束場所を、アレッポ郊外の一軒家、閉店した雑貨屋、倉庫、運輸省の支所の地下室と転々と移した。ときどき逮捕されて同じ監房に入ってくる人がいたので、どの辺にいるのかおよその検討はついたという。
《組織内のスパイ容疑者と一緒の房に入れられていることは、パドノス氏もこの段階までは、まだ「容疑者」という扱いだったように思われる。拘束場所がときどき替わるのは、安田氏を含む他の外国人ジャーナリストの場合も同じだ。》

6)2013年7月29日朝、脱走計画を実行した。まずシュライア氏が小さな窓から外に出てパドノス氏が這い出るのを手伝うという手はすだった。しかし、パドノス氏は体が突っかえて出られず、シュライア氏一人が逃亡に成功、トルコへと越境し帰国できた。
 この事件で、二人は訓練されたCIA工作員ということにされ、パドノス氏への扱いは酷くなった。常に目隠しをされ手と足は縛られた。その45日後(9月半ば)、パドノス氏はアレッポから6時間車に乗せられ、東部のデリゾール市の近くに送られた。新たな収容所は学校の校舎だった。
アレッポから遠く離れた東部に移され、待遇が大きく改善されたようだ。米国にいるパドノス氏の家族は、脱出に成功したシュライア氏によって、初めて現地での消息を知ることができた。》

7)2013年11月はじめ、ヌスラ戦線のトップリーダーの一人、カタニ師(Abu Mariya al-Qahtani)がやってきて、パドノス氏に、欧米がイスラムに対して犯した罪について語って聞かせた。
《カタニ師は、ヌスラ戦線の最高幹部の一人で、宗教部門の責任者であり東部デリゾール地域の軍司令官でもある。デリゾールへとパドノス氏を移動したのは、彼の扱いがカタニ師にゆだねられたとみられる。このときからパドノス氏は、スパイ容疑者から人質へと変わったのだろう》

パドノス氏は、「カタニ師が、ヌスラ戦線の資金を管理し、爆破対象をどれにするか、「囚人」を解放するか処刑するかの決定も行う」という評判を聞いた。
この収容所ではヌスラ戦線の戦闘員と仲良くなるようつとめ、秋には食事も改善され、目隠しと手錠つきだが房の外に出してくれるようになった。
 四つの独房があり、それぞれ狭いトイレ部屋くらいのサイズで、食事の差し入れ口のある鉄の扉がついていた。他の「囚人」を見ることはできず、互いに話すのは禁じられていたが、看守の隙を盗んで小声で話し合うこともあった。
 2014年3月、ISの司令官がパドノス氏の両隣の房に入れられた。パドノス氏は彼らと宗教と政治について議論した。
 2014年5月までには看守たちともよい関係を築くことができるようになっていた。食事や水も十分与えられた。

8)2014年6月はじめ、収容所に変化があった。パドノス氏以外の「囚人」は全員別の場所へ移されていった。収容所で進んでいた建設工事は中断された。
 7月3日朝、パドノス氏は房から出され、夜、車でユーフラテス川近くの油田のそばの民家に着いた。カタニ師とともに戦闘員など200人以上が早朝、車(ピックアップ)を連ねて出発した。カタニ師は、「ISに囲まれている」とパドノス氏に語った。 
カタニ師はパドノス氏に戦闘員の服を与え他の戦闘員に混じるように言い、また、南西部のゴラン高原の東端にあるダラア(Dara’a)に着いたら、家族のもとに返してやると約束した。パドノス氏はカタニ師の車に同乗するか、すぐ後ろの車に乗せられた。一団は10日間かけて政府軍の基地などを避けながら進み、首都ダマスカスの東20マイルの地点に着いた。その付近には自由シリア軍の部隊がいた。数日後、政府軍に見つかり、爆撃を受けてヌスラ戦線の戦闘員一人が死亡、車両6台が破壊された。
 7月中旬、カタニ師の部隊はダラアの郊外のサイダ(Saida)に着いた。カタニ師は毎日のように「すぐに故郷に帰してやる」とパドノス氏に言うようになった。
《この時期、デリゾール地域のヌスラ戦線はISから激しく攻撃され、劣勢に陥り、この地域を放棄して南部に逃れた。パドノス氏は客分の待遇でこの逃避行に同行させられたのである》

9)このかん、パドノス氏の動画が2回出た。
最初は3月。

「私はボストン出身のピーター・カーティス、ジャーナリストだ。きょうは2014年3月30日。食べ物も待遇もパーフェクトだ」と穏やかな表情で、待遇がよいことをアピールしている。


2回目はパドノス氏が「きょうは2014年7月18日」と言うビデオで、前回とは正反対の雰囲気。小銃を突き付けられ怯えた表情で「米国政府と友人のみんなへ。私の命を救える唯一の人、イブラヒム・アリバーシャがコンタクトしてすでに20日何もなされなかった。私の命は非常にあぶなくなっている。あと3日しかない。そのかん、何もしなければ殺される。みなさん何とかしてください。助けて下さい」と必死に訴えている。
《2番目のビデオは身代金交渉への圧力と見られるが、このあたりのやりとりについてはよくわからない》

10)2014年8月、監視つきながら5人の戦闘員と一緒に民家に生活していたパドノス氏は、ある朝、再び脱走を試みる。監視人が寝ているすきに、自由シリア軍が管理する病院に逃げ込み、「アイルランドのジャーナリストだ。助けてほしい」と告げる。自由シリア軍となのる男に部屋に招かれ待たされていると、15人のヌスラ戦線の戦闘員がやってきて連れ戻された。
 それからはベッドルームに閉じ込められたが、カタニ師は監視人がパドノス氏に制裁を加えることを許さず、より親切な監視人に交代させた。しばらくすると、居間で戦闘員と過ごしたりできるようになった。
《2012年10月の誘拐直後につづいて自由シリア軍に助けを求めて失敗している。シュライア氏だけが成功した脱出計画を入れると3度目の逃亡失敗なのだが、それほど厳しい罰を受けていないのは、

11)8月後半、パドノス氏のいる民家に5〜6人のヌスラ戦線幹部が会議にやってきた。そのほとんどが、携帯電話にジェイムズ・フォーリー氏(8月19日にISに殺害される映像が公開された米国人ジャーナリスト)の処刑動画をもっていて、笑いながら「これを見たか?ISが人々にどんなことをやるか分かったか?こんなことをされたらうれしいか?」と聞いてきた。
 2014年8月24日の午後、カタニ師が突然やってきて言った。「荷物をまとめろ。お前の母親のところに返してやろう」。カタニ師と数人の戦闘員と車でゴラン高原に向かい、クネイトラ(Quneitra、レバノンイスラエル国境に近い町)の近くにくると、UN(国連)のマークのある白いトラックが2台、アイドリングして止まっていた。非武装地帯の国連の基地で健康チェックを受け、米国政府の代表者と会った。
 パドノス氏は、のちに、カタールが解放処理を援助してくれたことを知った。
 数日後、ヌスラ戦線が、パドノス氏を受け容れてくれた国連基地を攻撃したと聞いた。
《国連の声明によれば、パドノス氏の身柄は、ゴラン高原の国連平和維持軍に、現地時間午後6時40分に引き渡されたという。》