日本の旅券発給第一号はサーカス芸人だった

長野の松本から、かみさんの友だちの朋ちゃんが泊りにきた。
シルク・ドゥ・ソレイユ」のファンで、毎年公演の時期に上京してくる。私は観たことがないが、芸術性の高いサーカスで、世界中で人気なのだそうだ。

サーカス好きの朋ちゃんに、「日本人のサーカス芸人が明治時代から海外に出て活躍してたの知ってる?」と聞くと初耳だという。
それで、大島幹雄『明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか』祥伝社)をタネ本に、朋ちゃんにとうとうとレクチャーしてしまった。
数年前に読んで、非常に感銘を受けた本である。

日本が開国して海外に真っ先に出たのはサーカス芸人だった。
大島さんは、ここに挙げた3枚の写真に出会ったことから、ロシアはじめヨーロッパ各国で絶賛された芸人たちの足跡を追い、そのうちの何人かはスターリン時代に粛清されていたことを突きとめた。知られざる驚きの事実が一つ一つ掘り起こされる。ある意味歴史書なのだが、まるでミステリーのような読後感だった。



冒頭、幕末の慶応2年(1866年!!)に、浜碇定吉(はまじょう・さだきち)という軽業師の一座が横浜から出て米国、欧州を2年間巡業したことが紹介される。
浜碇定吉は、安岡章太郎『大世紀末サーカス』や漫画『JIN−仁―』にも登場するが、同じ慶応2年に、少なくとも4つのグループ、40人以上の芸人たちが一斉に海外に出ている。実は、日本人として初めて「旅券」というものを受け取ったのが彼らだった。この4つのうち、2つの一座が江戸幕府も出展していた「パリ万博」に出演した。
つまり、それまで欧米世界にほとんど知られていなかった日本という国が開港し、はじめて海外にデビューしたのは、なんとサーカス芸人、エンターテイナーによってだったのだ。
興行師たちは、日本人の軽業師や曲芸師の技が、欧米のサーカス芸を凌駕する、並外れたものであることを知っていたので、外交官たちを使って幕府に旅券を出すよう働きかけたという。

これを契機に、日本のサーカス芸人たちは一斉に海外に出た。
外国のサーカス団が日本人芸人をスカウトすることもあった。イタリアのチャリネ・サーカスが日本人4人を雇い入れ南米公演に同行、あの南方熊楠キューバでこの一座に雇われていた。舞台の下働きのほか、得意の語学を使って団員にくるラブレターの返事書きでお金を得て学問を続けたという。
その他、現代演劇の祖、スタニスラフスキーが5人の日本人軽業師を自宅に住まわせオペレッタ「ミカド」上演の準備として、連日体の動かし方を教わったなど、たくさんのエピソードがあるように、日本人軽業師は世界中で活躍していた。

そのすごさの一例を本から紹介しよう。
第一次大戦が勃発した1914年、のちにレニングラードのサーカス場のリングマスター(司会者兼進行役)として活躍するバラノフスキイがモスクワで「ヤマダサーカス」の公演を見てこう書いている。
「日本人のひとりひとりの芸人たちはまさに驚嘆すべき名人たちであった。
 日本人たちの衣装の色彩の美しさと繊細は、その色調も模様をかきこんだ絹とすっかり調和していた。このアンサンブルは整然とした動きによって一層引き立たされた。永遠に忘れがたいのは、本当に美しく構成され、また見事に演じられた最後の演目で、その時代に相応しく、また同じように非常に日本的な題がつけられた『死の十字架』であった。
 天井の高いところに二本の鉄線が交差するように張られている。この鉄線の上を互いに向かい合って泳ぐように動いていくのだ。鉄線が交差するところで20人近くの日本人の綱渡り師たちが、行き交うのだ。彼らの美しい衣装は下から当てられた照明でさらに効果的に映える。演技はうっとりすると同時にあっと息をのむことの連続であった。すべての日本人は命綱をつけず、下にはネットも張らないで演じていた。これはひとりひとりの芸人が鉄線渡りの素晴らしい名人でなければならないということを意味していた」。
大島さんによれば、この綱渡りの芸は、「四つ縄」と呼ばれた日本古来の伝統芸のひとつで、《十文字に張った綱の交差したところで、宙返りをし、逆立ちのまま、足指に扇子をはさんで手踊りなどをする曲芸で、そのルーツは古く、室町時代から江戸時代にかけて演じられた蜘蛛舞(くもまい)と呼ばれた曲芸を源流としている》(P61)

日本のサーカス芸は海外でも取り入れられ、それは、いまのシルク・ドゥ・ソレイユの芸にも流れ込んでいるだろう。一方で、日本三大サーカスの一つ、キグレサーカスが2010年に解散してしまい日本のサーカスはさびしくなった。
伝統芸能の奥深さ、臆することなく異国に飛びこんでいった芸人のたくましさなどに感動しながら、日本とは何かそして海外との交流の原点を考えさせられる本である。