下町に愛された記者「さっちゃん」をしのぶ会

13日のフランスのテロ。
すさまじい惨状で言葉を失うが、この種のテロは続くだろう。
さらに、これをオランド大統領が「戦争だ」とみなしたことで、今後が心配だ。

オバマ大統領は「テロリストに裁きを受けさせ、いかなる組織であれ、追及する」と宣言した。
とりあえずはシリア、イラクでの空爆を強化するだろうが、その先はどうするのか。

常岡浩介さんとの共著『イスラム国とは何か』(旬報社)で、欧米は「イスラム国」を全く理解しておらず、空爆などでイスラム国をやっつけることはできないし、このままだと泥沼に足を踏み入れることになると警告したのだが、事態はそのとおりに進行している。
さらに、アメリカに追随して日本が中東の戦争に引きずり込まれる懸念を書いたが、この先が心配だ。地上軍派遣へと進んでいくのか。
・・・・・・・・・・・
9月、東京新聞に、ある記者の訃報が載った。

《本紙で下町の話題追い20年 丹治早智子記者 死去
2015年9月19日
 本紙したまち支局の丹治早智子(たんじさちこ)記者が十八日、墨田区内の自宅で死去した。六十歳。葬儀・告別式は未定。
 浅草を中心に街の話題を追って二十年。「白寿が担ぐ三社祭 数え九十九歳の筆頭総代鈴木さん」「浅草芸人プッチャリンに弟子 路上の喜劇 笑顔三倍」など、下町の人情あふれる記事を精力的に書いた。
 六年前に乳がんを発症。骨と肝臓に転移後も、抗がん剤治療を受けながら取材を続けた。今月五日に、したまち・山手・都心版に載った「話芸で輝く無声映画 麻生八咫(やた)、子八咫(こやた)さんの親子弁士 来年誕生20周年」が最後の記事となった。
 三社祭を主催する浅草神社奉賛会の鈴木秋雄会長(99)は「浅草を愛し、本当に熱心に書いてくれた。三社祭も盛り上げてくれ、個人的にも親しかった。突然のことに何も言えない。残念だ」と悼んだ。浅草演芸ホールを運営する東洋興業の松倉久幸会長(80)は「浅草にとって、なくてはならない人だった。『下町芸能大学』では一緒に浅草文士を発掘しようと奮闘してくれた。深く感謝している」としのんだ。》

東京新聞には浅草に「したまち支局」という名前の支局がある。
もう10年ちかく前になると思うが、私の学生時代からの友人のS君が「したまち支局」の支局長になったというのでその支局の存在を知った。
S君が「うちの支局に、優秀な女性記者がいて、夜は『ちいママ』やってるんだ」という。ぜひ会いたいと、彼女が働いているスナックに連れて行ってもらった。
その「ちいママ」こそ、「さっちゃん」こと丹治早智子記者だった。
陽気な女性で、楽しく飲ませてもらった。あなたのユニークな記者活動を夜のお仕事も含めてテレビで紹介したいな、と言うと、「さすがにそれはまずいわ」と笑って断られたのを覚えている。

先週、S君から電話があり、浅草で丹治早智子記者を「しのぶ会」が開かれるという。私は一度飲んだきりの縁なのだが、参加させてもらった。

(しのぶ会にて。壁には記事のコピーが貼られ、愛用の自転車も展示された)
《「人と街に愛された」 丹治記者しのぶ展示会
東京新聞2015年11月15日
 9月18日、乳がんのため60歳で死去した本紙したまち支局の丹治早智子記者をしのぶ展示会「ありがとう丹治さん」が14日、台東区雷門2のギャラリー丸美京屋で始まった。取材を受けた人や知人ら約50人が来場し、掲示した記事のコピー約40枚を前に思い出を語り合った。15日まで。 (村松権主麿)
 丹治記者は二十年にわたり、浅草を中心に下町の話題を追い続けた。会場には、展示会を企画した記録写真家の福田文昭さん(68)=豊島区=が撮影した丹治記者の白黒写真や、通勤などに使っていた自転車、花などが飾られた。
 午後の開場後、来場者らは取材の思い出などを順番に話した。十四年前から取材を受けていた福田さんは、自身の写真展や戦争の記憶を語り継ぐ活動など、紙面化された十本以上の記事を振り返った。その上で「人づきあいはよかったが、取材者と取材される側のけじめをはっきりさせていたから、これだけ続いたのだろう」とたたえた。
 企業のPR担当だった十三年前、初めて取材を受けた飯田ひとみさんは、恒例のイベントについて相談した時、「いいものは何度載せてもいいのよ」と励まされたという。イベント企画会社代表となった今も心に刻んでいるといい、「明るく前向きで、多くの人と街に愛された人だった」としのんだ。》


参加者はほとんどが「さっちゃん」に取材された人で、自分が載っている記事などを手に、思い出を語った。
お姉さんや同級生たちからは若いころの型破りな、あるいはじんとくるエピソードが披露され、参加者の笑いと涙を誘っていた。

さっちゃんが書いた記事のコピーが壁に貼られ、ふるまわれたワインを片手に懐かしそうに読みふける人の姿も。

いま、マスコミへの不信が広がり、マスゴミなどという罵りも聞こえる中、これほど地域の人々に愛され、惜しまれる新聞記者がいたとは・・・と感慨深かった。
しかし、思い出話を聞くうち、ある事実を知って驚いた。
さっちゃんは、いわゆる普通の「新聞記者」ではなかったのである。
いかにして、かくも稀有な記者が誕生したのか。
(つづく)