紛争地はジャーナリストを求めている

takase222015-02-15

バレンタイン・デーで、長女はチョコの詰め合わせを、次女は女友達にチョコケーキを作って余ったのをくれた。
かみさんからは、ハート型のせんべいをもらった。バレンタイン・デーは、もともとチョコレートとは関係ないのだから、これでいいのだ。甘いものはあまり摂らないほうがいいし。
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さて、《ジャーナリストはなぜ危険なところに(も)行くのか》である。

いろんな答え方があると思うが、第一に、「行かなければ、現場をリアルに知ることができない」と言うことができる。

《では、現場を知ることはなぜ必要なのか》
ジャーナリストは自分が知ることで満足してはいけないのであって、それを発表するのが仕事だ。「多くの人々に知らせることが事態への認識を広げ、ひいては解決への動きに寄与する」。

《なぜ、日本人が行かなければならないのか。BBCやCNNなど外国通信社の報道で済むのではないか》
日本人の視点で取材し報告することが、いま日本が取るべき態度、進むべき道を考える上で重要になる。イラク戦争が、完全に誤った事実認識サダム・フセイン政権が大量破壊兵器を保持し開発している)から始まったことを見ても、外国のメディアに頼るのは危険である。

要は、その紛争の実態を日本人がきちんと知らないと国の針路を誤りかねない、だから日本人ジャーナリストが現場で取材して報告すべきだ、ということである。

ただ、えてして「私が行かずして誰が行くのか」「誰かが真実を伝えなければ・・」と肩ひじ張った言い方になりがちで、これが、ジャーナリストってそんなに偉いのか、特別なのか、と反発を買っているようだ。

きのうの『報道特集』に国境なき医師団」広報の舘(たち)俊平さんが出てきて、こう言った。
「私たちは、命の危険にさらされた人の元に駆けつける、他の援助が入らない地域に入って活動します。シリア、イラクはまさにそういう状態です。」
おお!シリアは、むしろいま入って活動すべきところだというのだ!
そして、外務省から何を言われようと、「日本人スタッフの退避なども、医師団独自の判断で決められる」ときっぱり。
この団体、常岡さんが取材したシエラレオネの山奥の「エボラ出血熱」最前線で、スタッフに感染者を出しながらも撤退せずに踏みとどまって、いたく感心させられた。(WHOは感染者が出て撤退した)

舘さんの言葉を聞いていて、《なぜジャーナリストは危険なところに行くのか》との問いに、「現地の視点」をもっと入れて考えるべきではないかと思った。
つまり、紛争地の人々は、日本人を含む外国人に取材してもらいたいと思っているのかどうか、だ。
おそらく、ほとんどの場合、「ぜひ、ここにきて私たちを取材してほしい」と言うはずだ。シリア内戦では、人口2200万人のうち、900万人が避難民(うち300万人が国外への「難民」)となっている。国民の半分近くが、自分の住む家を破壊され、あるいは自ら捨てざるをえなかったわけだ。
避難民キャンプに収容されたり、知人の家に匿われたりするのは幸運なごく一部の人で、家族が殺されたり生き別れし、身売りまでして生きている人も多い。
誰も助けの手を伸ばしてくれない今の状態で、一縷の希望を託すのが、国際社会からの支援だ。
私も経験があるが、紛争で避難する人々からは、しばしば「ぜひ我々の話を聞いてくれ、そしてこれを外の世界に知らせてくれ」と熱く訴えられる。「何度も外国人取材班が来たが、俺たちの状態は、ちっとも改善しないじゃないか!」と叱られもするのだが、それも期待の大きさゆえである。
つまり、厳しい現場になるほど、ジャーナリスト、とくに外国人ジャーナリストは、人々に求められていると言える。
「私が取材したいから、取材すべきと思うから行く」という側面だけでなく、「取材を望まれているから行く」「現地が切望している」ということもしっかりアピールすべきだと思ったのである。

「職業」を意味する英語にcalling コーリング)という単語がある。
「天職」に近いニュアンスだ。自分が向こうから「呼ばれている」のである。「使命」の深い意味はそこにあるように思う。