いつも通る道に、野菜や芋、花などが置かれている。
無人の農作物の産直所である。これは、日本以外の国でありうるのかといつも思う。
他の国でやったら、ネコババされるだけだろう。では、日本人の振る舞いはどうやって形成されたののか。
・・・・・・・・・・・・・
日本人のモラルの高さを見習いたいという中国青年R君。
「日本人は時間をちゃんと守りますね」というR君に、私は「つい100年ちょっと前く
らいの時代、日本人は全然時間を気にしなかったんだよ」といった。
けげんな顔のR君。
「幕末から維新期にかけて日本に来た西欧人が、日本人はなんて時間をまもらないんだ、と嘆いているんだよ」と私。
アジアに住んだ経験のある(けっこう名の知られた)日本人がこんなことを言っていた。
「日本では、水稲稲作の歴史が長いが、水稲稲作は農作業の節目をしっかり管理しないと豊作にならない、だから日本人は時間を守るんだ」。
ブー!間違い。
日本人が時間を守るようになったのは、明治維新後の近代工業の下でそれに適合する文化をたたきこまれたからである。
これを聞いたR君。実にうれしそうな笑顔を浮かべて、「ほんとですか、それを聞いてとても安心しました!」といった。
時間を守るようになった日本人は、かわりに大事なものを無くしてもいると言いたかったが、それは口にしなかった。
私は渡辺京二の名著『逝きし世の面影』を思い浮かべていた。
・・・・・・・・
きょうも飲み会から帰って書いているのだが、こんないいかげんな日記を書き綴ることにどんな意味があるのか。
単なる記録、自己満足なのか。
ときどき自分でも疑問に思ったりする。
そんなとき、ちょっと励まされたのが、ジャーナリズムとはもともと「日々の記録」だったという話だ。
ジャーナリズムのもとになったジャーナルという英語を辞書でひくと、たしかに「日誌,日記 《【比較】 通例 diary より文学的なものをいう》」とある。
なるほど!つまり日々の思いを書き綴る、身辺雑記はジャーナリズムに通じるわけだ。
(つづく)